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資本主義の次は〇〇主義?

世の中に「資本主義」という仕組みが生まれて以降、世界の経済は急速な発展を遂げており、現在でも「資本主義体制」が世の中における支配的な制度となっています。
「資本主義はいずれ破綻する」として、社会主義体制を提唱するマルクスのような人物も現れましたが、「計画経済」を取り入れたソ連のような国家が軒並み崩壊してしまった歴史を見ても、現状資本主義を超える最適な体制が出てきていないことは否定しようがないでしょう。

ただ、そんな資本主義ももちろん完璧なものとはいえず、マルクスが

資本主義体制下においては「資本家が労働者を搾取する」という構図になることが不可避であることから、労働者革命が起こり、やがて終焉するだろう

と指摘するのも肯けます。
しかし、実際には資本主義が最適な経済体制として残り続けていますよね。では、これからも「資本主義」という仕組みは永続的に存在し続けるのだろうか?もっと最適な仕組みが出てくるのではないか?そんなことを最近少し考えるようになりました。

そんななか、飲茶さんの「史上最強の哲学入門」という本で、資本主義ももうそろそろ変わるのではないか?という趣旨の文章があり、それがかなり興味深かったので少し長いですが引用して共有します。

たしかに、資本主義のおかげで、僕たちの生活は豊かになった。だが、実のところ、もはや十分に豊かになったといえるのではないだろうか。僕たちの生活を豊かにする技術は飽和したといっていいのではないだろうか。だとすると、僕たちはいったい、何のために労働するんだろう?
ものがあふれ、生活必需品を自動的に生産できるシステムすら作り出せるはずの知恵を持った人類は、なぜ毎日、「お金がない」と言い続けながら、人生を労働に費やし続けているのだろう。僕たちは、働くために生まれてきたのだろうか。
そもそも、最初は、自分たちの生活を豊かにするために、資本主義経済をつくり出したはずなのに、いつの間にか、そのシステムを維持するためだけに、過剰な労働を強いられている。それは主従関係がいつの間にか逆転した状況だと言えるだろう。

そして、インターネットが普及し、ネット上で安価に娯楽を得ることができるようになった今、はっきり言ってそれほどお金を稼ぐ必要性もなくなりつつある。
「大きな家に住んで、いい服を着て、いい車に乗って、街に繰り出して遊んだり、遠くに旅行に行くこと」、それがかつての贅沢の仕方であり、出かけるたびにお金がかかる(消費する)から、がんばって稼ぐ必要があった。だが、いまや家でパソコンの前でインターネットをしたり、ネットゲームで遊んだりするだけでいくらでも時間が潰せる時代なのだ。テレビ、ネット、ゲーム、動画サイト、匿名掲示板・・・、それらはとても安価な娯楽である。田舎の小さな部屋にパソコンとネット回線さえあればいい。月に何日かバイトするだけで、十分に娯楽を楽しむことができるだろう。

さぁ、そうなったら、誰が、一生懸命働くだろうか。ますます、一生懸命働く意義などなくなってくる。だが、みんなが一生懸命働いて成長し続けていかないと、資本主義社会は崩壊してしまうのだ。
かつては、地位のない庶民でも「成り上がれる」「贅沢できる」という欲望が資本主義を維持する原動力となっていた。だが、今の世の中は、そんなに苦労してまで欲しいものなどどこにもない。もはや、経済的成功に対する欲望は薄れてしまったのだ。
だからこそ、「働きたくない」「働いたら負けだと思う」という人種_ニートたちが出てきても、何もおかしくはないのである。

今、世間ではまったく働かないニートが社会問題になっていたり、生きるために必要な分しかバイトで稼がないという人種も増えつつある。それは決して、若者たちが堕落したわけでも、親のしつけが悪いわけでもない。
彼らは、資本主義社会の成長が飽和状態に達したため、「労働の価値を見失った」という新しい「歴史的な問題」に直面した世代の人類、新しい血族であり、のちに数百年後かの人間が、僕たちの時代を歴史として見た場合、「そりゃあ、そういうやつも出てくるに決まってるよ(笑)」と評するであろう、歴史的に必然の人種なのだ。

そんな時代に生きる僕たちは、労働の価値を見直すという歴史の転換期にきているのである。

最後の「労働の価値を見直すという歴史の転換期にきている」という点には激しく共感。
お金をかけなくても娯楽ができるし、飽和しきった経済社会下で頑張ったところでどうせ報われないから、汗水たらして働くなんてアホらしい、と考える人が増えているのは一定事実だと言えるのでしょう。

とはいえ、「頑張っても無駄だから、働くことなどやめて好き勝手やりたいことをやって、時間を潰せばいい」と考えることを是とする社会が、人々を幸せにするとはあまり思えません。
だって、急に「経済社会はもう飽和状態で発展してきているから、あなたたちは発展のために頑張らなくてもいいですよ」なんて言われても、途方に暮れてしまいますよね。それこそ、サルトルのいう「自由の刑」に処されることと変わらないのではと思います。

人が喜びや幸福を感じるためには、「自らの成長を実感すること」が一定不可欠だと思います。遊んで暮らす生活には憧れるけど、いざそのような生活を手に入れると、やっぱり何か挑戦してみたくなる。人間そんなもんではないでしょうか(遊んで暮らす生活を手に入れたことがない人間の妄想です)。
だから、人々に自己の成長を促す社会は今後も絶対にあり続けた方がいいと個人的に思います。

ただ、「稼がなくても楽しんで暮らせる」という点と、「経済が人々を豊かにする技術が飽和してきている」というのが、これまでとは違う点なのでしょう。そう考えると、これからの社会は、「経済を成長させるために働く」というモデルよりも、「自己を成長させながら、よりよい社会をつくるために働く」というモデルが主流になっていくのかもしれません。
もしそうなったら、今の資本主義という仕組み自体はもはや持続可能性を失ってしまうのかもしれませんが、そのときはそれに代わって新たな〇〇主義というものが出てくるのでしょう。

本日もお読みいただきありがとうございます!