見出し画像

コミュニケーションのレッスン〜自意識とつきあう

会議の席、20人ほどの会議はZoomを使ってもっぱらWEB会議になって久しい。私の発表は次の次だ。

『彼の発表が終わったら、次はあの支店のヒトの発表だな・・・』

『その発表が終わったら、その次は私の番だな・・・。うわ緊張してきた。』

『話す内容は?うん、この資料だ、内容説明できる?あれ、そもそもこの話って1から10まで話す必要あるんだっけ?』

これを考えている間、今の発表の内容はなに1つ頭に入ってこない。声は聞けども、意識は自分に向いている。檻に入っているような気分になる。

『あ、彼の発表が終わった。次は彼女だな・・・5分くらいしたら次はいよいよ私か。うまく話せるかな。先月はなんとか乗り越えたけど、今日こそは馬脚が出てしまうかもしれない(うまくいかない)、声がうわずるかも。そもそも、何言ってるかわからん、と言われるかもしれないな。いや、誰がそんな事言うんだ?そんなやり取りこの会議では事例がないぞ?この瞬間にネットワーク障害で会議中断!なんてことにならないかな・・・もしくは時間がないから飛ばされるとか。。。』

5分ほどして、自分の名前が呼ばれる。

『・・・あ、もう私の番か、、、あれ、何話すんだっけ?』「え〜、では○○からご報告いたします・・・・えっと・・・まずは・・・」

  ・・・・

コミュニケーションを学ぶ一冊

書いていて身の毛がよだつような事例です。

これ、一昔前のわたしの心境です。なんて、他人事のように書いていますが、今だってこの心境が頭の片隅によぎるのを感じます。

問題なのは自意識。さらにいうと、自意識が過剰になってしまうことで、コミュニケーションを負担に感じてしまうことがあります。会議などの、いわゆる「公の場」ではなおさらです。

先日、こんな経験を持つ私の悩みに答えてくれる一冊に出会いました。

鴻上尚史著、コミュニケーションのレッスン (だいわ文庫)です。

演劇の演出家であり、同時にラジオパーソナリティー、小説家の顔を持つマルチタレントの鴻上さんが、対人関係の助言をまとめています。過去、彼が書いた「孤独と不安のレッスン」に感銘を受け、次なる1冊に手を伸ばしたのです。

研究者ではなく、現場での実践家だけあって、語り口調が易しい。それでいて、普段私たちが陥りがちな思考のワナを的確に指摘してくれる、ほぉ、と息を吐くパラグラフが充実しています。

ぜひ本自体でお読みいただきたいのですが、今回はイントロダクションとして2つ、私が感銘を受けたポイントをご紹介します。コミュニケーションに課題を感じたことがある、あなたに必読です。

世間と社会を分けて考えること

慣用的に言い回しを分けている自覚はありましたが、意味の差を考えたことがありませんでした。あなたはどうだったでしょうか?

鴻上さんが言う世間とは、村社会のこと。本音と空気が大切で、年功序列や、排他的な雰囲気、過去から未来まで場所を共有する仲間意識を指します。

対して、社会とは現代社会を取り巻く、街社会のこと。建前と客観が大切で、見知らぬ人たちと、一時的に場所を同じくしている雰囲気を指します。

対人関係を意識する時には、自分は世間に対して話しているのか、社会に対して伝えようとしているのか。相手と、彼(彼女)が所属するグループを見極める判断力が必要。彼が繰り返し強調する点です。

確かに私もあなたも、家族へ話すように、職場の同僚へ話しかけていないと思っています。取引先の担当者に急に小学校時代の思い出を共有できる人も少ないでしょう(幼馴染が取引先に就職したなら別ですが)

さらに職場の同僚でも、十数年来、ブラック企業で泥水をいっしょにすすった仲間と、昨年入社した中途社員では、話し方を変えています。

まだ名前と家族構成くらいしかしらない元自動車ディーラーさんに、「10年前の例の事件さ・・・」と話してもその反応は薄いでしょう。もしかすると、興味ありそうな反応を返してくれるかもしれませんが、、、その建前の心配りに感謝しか覚えません。本音から理解、同意してもらうためには、少なくとも、1から順を追って説明する必要があります。その関係は、言い換えれば「あるあるが通用しない」間柄なのです。

鴻上さんを引用すると、前者には世間の顔、後者には社会の顔で話しているんですね。私が勤めている会社は、今でこそ大きな組織になっていますが、5年前までは1中小企業でした。人数も少なく、全社員の顔と名前がわかる程度です。いわゆる「世間」の関係だけで社内交流ができました。

今は違います。社員が数百人になり、一度もあったことがない社員が全国で働いています。WEB会議で話す時にも昔話から始めるわけにはいきません。初めてあった人にも伝わるように、順を追って説明する必要があります。

と、この必要性がわかっているか、そうでないかで、コミュニケーションのミスマッチが変わってくる。鴻上さんが伝えたいことです。見知らぬ人同士の社会としてのグループに、世間話をしてはいけないのです。

自意識をサポーターにする

これが一番印象に残ったパラグラフです。冒頭に書いた「私」の例ですね。自意識が過剰になると、頭の中がどうでもいい考えでいっぱいになってしまいます。

インターネットで例えるなら、ネットワークが「ループ」している状態といえるでしょう。

LANケーブルが縛られた紐のように1本になってしまっています。データがその1本の中で無限に往復することで、パソコンのメモリ許容量が0になってしまう。そして気づいた時には肝心なデータが出力できないくなってしまいます。

データが「伝えるべき内容」だとすると、かなり悲劇的な状況です。本来どうでもいい独り言でも、無限に頭の中でループすると、もっと大事なものを頭から追い出してしまうのです。

この考えの根底あるものは何でしょうか?これは本では直接触れられていないのですが、私の言葉で表現すると、次のような欲求です。

 完璧にしゃべりたい(満点思考)

 うまく話して人に好かれたい、嫌われたくない

 評価されて得したい

これらはどれも自分都合の欲求。自己保身や完璧主義です。

では、こう考えないようにすればいい、と言えば話は早いのですが、そうは問屋がおろしません。経験されていればわかりますが、「そうは言っても、頭から離れない、どうしても浮かんでくる」思考なんですね。

鴻上さんも長年の経験から、この考えは0にできない、と明(あき)らめています。捨てようとすればするほど頭の中を支配すると。

ではどうすればよいでしょうか。

彼が紹介する方法は、とてもシンプルです。それは、別のことを考える、ということ。後で食べるランチや、終末の予定ではないですよ。

今話そうとしている(もしくは聞いてる)内容を、より具体的に、イメージできるようになるまで集中して話す(聞く)ということです。

事例でも少し触れたのですが、自意識が強まっているときは特徴があります。自分のことで頭がいっぱい。相手が話している内容が頭に入ってこないのです。

「今彼が話している」と受け止めず、「話している彼の、次の次は、私の番だ」と肩肘を張る。

この思考になっていたら、自意識が高まっている客観的な証拠です。

逆にこれに気づけようであれば、鴻上式自意識の鎮め方は実践しやすいでしょう。「彼は今は何を話しているんだろう?」「彼の意見は正しいだろうか?」と集中することで、今ここを具体化できるようになるということです。

会議に積極的に参加できる利点はもちろん。自意識を適切にコントロールできる利点は計り知れません。


すべての悩みは対人関係の悩みである 

心理学者のアドラーが言うように、不安や悩みの原因は、環境ではなく、それに関わる人との付き合い方ではないでしょうか。

鴻上さんが教えてくれるのは、そんな性根に関わること。そしてそれを「少しずつ」改善してくれる具体的なアドバイスです。

以上、コミュニケーションのレッスンから学んだ「世間と社会」「自意識との付き合い方」について考えをまとめてみました。

世間ズレを痛感したことはありますか?また、自意識が強くなることはありますか?ご経験がありましたら、ぜひご意見聞かせてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?