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哲学者が教えてくれた「自由な」生活に必要なモノ

自由という言葉ほど、話し手と聞き手の間にズレがある言葉もすくないと思います。少なくとも、私はそう。
「仕事で死にそう、、、もっと自由な時間がほしい!休みの日に温泉でも行きたい!!」
こう愚痴をこぼされると、なるほど今大変なんだな、と共感しながらも、なにか釈然としません。

恐らくそれは、自由という言葉のイメージが違うからです。
「みかんは赤い」と力説されたような。似ているけれど、いやそれは橙色だと思うな・・・そんな自分の心の中で別の色が間違って精製されたような気持ちになります。

そのズレとはなんでしょうか。

もちろん、重なり合う意味もあります。
なにかに縛られない環境。
強制や義務を感じない脱責任感。 
つまり、他者に干渉されないこと。それが自由。

このあたりを広い意味として捉えています。意味の最大公約数ですね。

対して、私はもう少し意味合いを付け加えるよう心がけています。

わざわざ「心がけている」と書いたのは、まだ自分で意識してしまうほど、価値観の一部になりきっていないからです。
怪我をしてできたカサブタは、思わず手を伸ばしてしまうほど、異物として違和感がありますよね。それに似ています。カサブタのような自由を作っている最中なんです。

その意味というのは、確か18世紀の哲学者イマヌエル・カントが定義した、この言葉に集約されます(易訳です)

自由とは、欲求に流されて、なにか好き勝手振る舞うことではない。
自らルールを立て、ルールを守ること。自律の精神を指す。

イマヌエル・カント

昔、背伸びをしてカントにチャレンジした時に出会ったフレーズです。全体の理解には程遠く、未熟さを痛感した一冊だったのですが、この定義だけは忘れることができませんでした。目が釘付けになりました。

その理由は、自由という言葉が思いのほか自由だったと驚いたからです。

先程あげた、自由の定義は、好き勝手振る舞えるようでいて、実は他の人に左右されてしまうことが多いです。
職場であれば、会社規定や、人間関係の制約がある。
家に帰れば、毎日家事洗濯をしなければならない。その中で、一般的な自由を手に入れるのは困難です。
だからこそ、貴重なモノとして、もてはやされているかもしれませんが。

ですが、カントが言う自由とは人に与えられるモノではありません。そして、宝石のように手に入りにくいモノでもないのです。

彼の自由を英訳するのであれば、FREEという翻訳ではなく、MY RULE(自分ルール)の方がしっくりくるのでは?と思ってしまう程です。

さっきの例をこのカントがいう自由で置き換えてみます。

人間関係が仕事に影響している時、私は誰の意見にも一度耳をかたむけて、総合的に判断しよう。そして、意見が衝突してしまう時には、経営者ではなく、現場の声を優先できるよう心がけよう。 

自由(自分ルール)①

家事洗濯はしなければならない。でも、食事を作る時には、美味しいだけの食事は作りたく無い。身体に良くて、かつ美味しいものを作ろう。洗濯や、お風呂に入った直後に必ず回そう。

自由(自分ルール)②

例えば、こんな自由を感じられる可能性があります。
大事なことは、こういった自分ルールは、自分の態度や考え方次第なので、周りの人に影響を与えられない、ってことです。
本当の自由、もしくはそうであってほしい自由、を書いている。
だからこそ、あの訳わからん本の中でも、目で拾い上げられた一節だったのです。

欲のまま生きるのは自由ではない。
自由な生活を送るためには、まず自分の中にルールが必要。

カントが教えてくれた、気が軽くなる心の持ちようの話でした。

※古典から、生活をより良くできるチャンスは本当にうれしいものです。

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