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卒業と上陸|スケボーの記憶 #1

なんと書けています。まだ飽きていません。ということで今回は「スケボーの記憶」2本目ということで記憶をたどっていきたいと思います。

ところで先日話題のイカゲームを観たのですが、観終わった後の感じが世間は高熱なのにぼくは平熱だったので、その差に戸惑っています。

さて、前回はこの「スケボーの記憶」を書いていくにあたっての導入文みたいな内容でした。今回は「卒業と上陸」になります。

ここで残念なお知らせです。いや、特に残念と感じない人もいるかもしれません。今回はスケボーは登場しません。「スケボーの記憶」ということで主役はもちろんスケボーなのですが、たぶん、今回はスケボーにはたどり着かないでしょう。でもきっと、たどり着けますからご安心ください。

「卒業」というのは小学校卒業のこと、「上陸」とはサイパンに上陸ということです。なんといっても、小学校の6年間を日本で過ごしたぼくがサイパンという異国の地に足を降ろすのですから、11歳のぼくにとってはビッグイベントです。

実はぼく、幼稚園時代の3年間は中国の上海で過ごしています。でも、この頃の記憶というのはけっこうぼやけてまして。お昼のご飯の量が多すぎて「もう食べれません」と先生に意思表示するために「ブイヤオ」と言っていたのだけ覚えています。だから「異国の地に暮らすのか」という事態を実感を持って当時感じれていたかというと、ちょっとわかりません。タイムマシンでもつくって当時のぼくに聞いてみるしかありません。

ということで「異国の地に暮らすぞ」という体験は、サイパンでの体験が感情面では初めてだったという風に記憶しています。父親の仕事の関係だったのですが、当時は単身赴任か、家族で移住か、という選択肢があったようです。ぼくは「サイパンに行きたいか?」と親に言われても「それは不思議の国のワンダーランドに飛び込むようなもので、うさぎの穴に入りたいか?と言われても、すぐに決断できるようなものではないよ」と言いました。すみません、言ってません。

ぼくの頭の中は「???」という感じだったわけですが、ここで姉が「行きたい!」と手を上げるわけです。(おそらく)これによって家族での移住が決まりました。

これからサイパンでの日々を振り返っていくわけですが、サイパンに行ったことはとても良かったことだと思っています。タイムマシンで上陸前のぼくに会えたとしても、何も言わずにただ「幼いなぁ」と眺めるだけでしょう。サイパンに行かなかった場合のパラレルワールドに行けるとしても、全く興味がありません。

それでいよいよ家族でサイパンに移住するわけですが、サイパンの公用語は英語(現地語のチャモロ語というのもあります)です。当時のぼくの英語レベルはというと「ハロー」くらいしか言えませんでした。しかも「こんにちはってハローだよね?」と確認してしまうほどです。「サイパンで暮らす」というのは「英語で暮らす」ということで、(もうあんまり覚えてませんが)心臓ばっくばくだったろうと思います。たぶん。

それでついにサイパンに上陸してどんな感じだったか?というところを書いていきたいのですが、残念ながら細かくは覚えていません。「あーあったかい。ヤシの木だ」くらいは空港に到着して思ったかもしれませんが、わりと記憶はぼやけています。

ただポイントでお話すると「現地の学校に通った」「毎週土曜日は日本人学校に通った」というのがあります。現地の学校は、校長先生が中国人のクリスチャン学校でした。放課後に女性の先生がぼくと妹、姉の3人に英語のクラスをやってくれたことを覚えています。校長先生の息子がロードオブザリングの映画のセリフを終始マネしていたのも覚えています。

あ、そうだ、ちょいと話を戻しますが、まずは入学初日の話からですよね。クラスが決まって、みんなの前にでて英語で自己紹介をしました。めっちゃ緊張したので全く覚えていません。ハローアイムヨシ。ナイストゥーミーチューくらいだったかもしれないし、間違ってもアイウォンチューなんて言ってないはずです。とにかく、これは緊張した。「緊張したな」という感情だけしっかり脳に残っています。それで、学校に通うなかで放課後には英語のクラスを受けていた、という感じです。

そして、日本語学校の話ですね。これは毎週土曜日に通っていたのですが、なにかを勉強する、というよりも「日本語を忘れないために通う」という意味合いが強かったように思います。ぼくのクラスは確かぼく含めて2人しかいなくて、そのクラスメイトがヒロくんでした。(ヒロくん、名前だしてもいいよね?ありがとう)

それで、このヒロくんがぼくにとってのサイパンでの最初の友達でした。ヒロくんが通っていた影響か、合気道の教室に妹と一緒に通いだしたりも。しかも、ヒロくんがのちに紹介するスケボー先生ロビンにつなげてくれた人でもあります。あ、ロビンも名前だしていいよね?もちろん。

それで英語の話に戻るのですが、サイパンでの生活は、ほとんど英語なわけです。家に帰ると家族とは日本語で話しますし、日本人学校でもそうですが、それ以外は英語なわけですね。現地の学校での交流、お店、看板、雑誌、テレビ、ぜんぶ英語です。

ぼくはあんまり英語を覚えることに興味はなかったのですが、覚えているのは「夢で英語がでてきたら慣れてきた証拠だ」という話です。実際、夢で英語がでてくるまでに1年かかりました。ぼくは内向的なのでこれくらいでしたが、妹や姉は半年もかかってないんじゃないかと思います。

あと確か、学校に入学したときのぼくの学年は7年生ではなかった気がします。日本と海外では学年の数え方が違うのですね。「小学校」「中学校」「高校」ではなく、1〜12年生みたいな感じだったと思います。なので、小学6年のぼくがやってきたら次は7年生じゃん?と思うのですが、どうやら何かの事情があったのか僕の学力が足りなかったのかわかりませんが、そうじゃなかった。だから、3年間をサイパンで過ごして日本に帰国して高校に入学するためには、3年目で9年生になっていないといけない。でもぼくは7年生じゃなかった。だからどこかのタイミングで飛び級というのをして、なんとか帰国して高校に編入できた感じです。

たまに天才の本とか読むと「中学生で大学院に入った」みたいな話があったりしますが、その飛び級です。といってもぼくは天才ではありません。学校でのテストはほぼ暗記だったので、とにかく暗記しまくって飛び級しました。

あ、あと日本語の通信教育もしていました。母親が教えてくれる感じで、これも記憶はぼやけていますが(ごめん笑)、かなりがんばってサポートしてくれていただろうと思います。唯一強めに覚えているのが読書感想文ですかね。今でこそ読書好きのぼくですが、当時は読書は大嫌いだったし、感想文の文章を直されたりで、大変というか苦手だったと記憶しています。

なんかこうやって書いていくと、平日は現地の学校、土曜日は日本人学校、合気道の教室、通信教育、さらにはスケボーと「充実しすぎやろ!」と思いますね。でも記憶というのは不思議なもので、ぼくの脳内に「サイパン時代のタグ」があったとして、「スケボー」だけ異様にでかいみたいな感じになっています。

それと現地の学校でのぼくは、驚くほど無口だったようです。あまりにも喋らないから先生が心配になって親に「かれは大丈夫か」と相談したみたいです。それくらい喋らなかったので、当然英語力も上がりません。でも、スケボー友達とは割と英語で交流してました。

ちょっと学校の話になると時系列がごっちゃになっちゃいましたが、今回は「学校」というトピックで思い出せることをばーっと書きました。3000字超えてしまった、、、そろそろ終わりにしましょう。次回からは、やっとスケボーの話がからんでくると思います。ではまた。

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