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未来派の近代──時間・運動・破壊

2022年7月、岡田暁生教授の講義「音楽の近代と時間意識」のためにかいた文章です。原題は「未来派の近代──時計的゠機械的時間からの逸脱へ」でした。わたしは文学部生ですが、美術や音楽にくわしいわけではありません。もしまちがいがあれば、おしえてください。


時計的時間の発明は、近代工業社会の「発展」をもたらしたばかりでなく、「近代であること」そのものを規定したといえる。大規模な工場制機械工業や鉄道輸送は、時計的゠機械的な時間管理なしには成立しなかっただろう。近代社会とは、つまり、巨大機械のアナロジーとしての社会であり、それは時計的時間によって基礎づけられたのだ。

そのような時計的゠機械的な近代のイメージから、わたしがまっさきに想起するのはイタリア未来派の絵画と音楽である。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの「未来派宣言」(1909 年)に端を発するこの芸術運動は、機械やテクノロジーを賛美し、スピードやダイナミズムを表現した。その活動は、絵画や彫刻にとどまらず、写真・建築・デザイン・ファッション・演劇・音楽・文学・政治活動にまでおよんだ。

未来派は、過去を破壊し、機械文明を加速することをこころみた。それは、時計的時間を徹底させることを意味した反面、度をこせば時計的時間から逸脱することにもなった。たとえば、未来派絵画で、運動している物体がえがかれるとき、それはしばしば残像をともない、あるいは残像そのものとなる。物体にともなう残像は、時計的時間のなかのいくつかの定点で観測された現象であり、時計的時間の現在において、物体はたしかに存在する。ところが、物体が残像そのものとなったとき、そこに物体は存在するといえるのか。ジャコモ・バッラの《鎖につながれた犬のダイナミズム》(1912年)をみてみよう。もはや時計的時間における現在も過去もなく、ただ運動があるのみである。

おなじことは、ルイージ・ルッソロの未来派音楽にもあてはまる。たとえば、ルッソロの代表曲《都市の目ざめ》は、イントナルモーリという騒音楽器をもちいて、都市の騒音を表現した音楽作品である。この曲には五線譜の楽譜があり、音高や持続が明確に記譜されている。その意味で、この作品は時計的時間を基準に成立しているといえる。しかし、その聴覚的な印象はどうだろうか。さまざまな騒音がいれかわりたちかわりあらわれる。その一体となった音響が五線譜的に構造化されていたことを想像できるだろうか。つねに持続する音は、時計的時間の規定を拒否する。たしかに騒音は機械的だ。けれども、それは時計的時間から逸脱している。

未来派の芸術家たちは、加速する近代がゆきつくはてをかいまみた。イタリアはファシズムの時代をむかえ、破壊的な戦争へとつきすすむ。そして、近代という巨大機械は重大な危機に直面するのだ。戦争は巨大機械自身を加速し、破壊した。それは、時計的゠機械的時間の徹底化であると同時に、破壊でもあったのではないだろうか。


金相美「未来派(イタリア未来派)」(https://artscape.jp/artword)
細川周平「ルッソロ」『日本大百科全書』小学館

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