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【百年ニュース】1922(大正11)年1月10日(火) 大隈重信が死去,享年83。1838(天保9)佐賀出身。1870(明治3)参議。1881(明治14)政変で失脚,立憲改進党を組織。東京専門学校(早稲田大学)創立。1889(明治22)外相時のテロで右足喪失。1898(明治31)と1914(大正3)の2度内閣総理大臣を務めた。

大隈重信が死去しました。享年は83歳でした。首相を二度務めた政治家であり、言論人であり、また早稲田大学初代総長でもある大隈重信の死去は、時代の区切りを強く印象付けました。「大平民」政治家として世論の強い支持を集め、その葬儀には「百万人」もの人が集まり熱烈に追悼されました。

大隈侯逝去の新聞記事
大隈重信の国民葬

外交家として頭角を現す

1838年3月11日(天保9年2月16日)に大隈重信は佐賀藩の大砲術隊長、大隈信保の長男として生まれました。佐賀藩が管轄する長崎において長崎裁判所参謀助役として外国人たちと頻繁に接し、行政事務・外交事務をこなすなかで頭角を現しました。

1968(慶応4)年には新政府の重職である参与に抜擢されました。このときの参与は西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら有力藩を代表する藩士、各藩の代表、公家らで構成されていましたが、その同列に並びました。参与と兼務で外国事務局判事(外務省の局長級ポスト)にも就任し職務を担当しました。

のちの大隈は新政府内で木戸孝允派の実力官僚として、また早期の廃藩置県を目指す急進派として、活躍の場を大蔵省に移して活躍しました。贋金の処理、太政官札の流通、貨幣相場の統制、金銀貨幣の鋳造準備などを進めたのが大隈の功績です。

第一次大隈内閣

1870(明治3)年に大隈は参議に就任しますが、木戸派の中心が徐々に伊藤博文となるにつれ、木戸派から排除されていきました。岩倉使節団の留守政府では参議兼大蔵省事務総裁となりますが、征韓論に端を発する明治6年の政変では征韓に反対し、以後は大久保利通派として活動します。

1881(明治14)年の政変では、伊藤博文との対立から失脚し内閣を追放されます。その後はイギリス風の政治を目指し立憲改進党を組織し自ら党首となるとともに、東京専門学校(現在の早稲田大学)創立しました。

1887(明治20)年に条約改正交渉に行き詰まった井上馨外相の推薦により、首相の伊藤博文と和解し、大隈は外務大臣として政府に復帰します。しかし条約改正交渉の最中、2年後の1889(明治22)年に国家主義組織玄洋社の来島恒喜くるしまつねきによる爆弾襲撃で右脚を失いました。

黒田清隆内閣に続き、その後も大隈は薩摩派と連携しました。1896(明治29)年に松方正義内閣においては、大隈の進歩党が衆議院第一党として与党となり、いわゆる松隈しょうわい内閣が組織されましたが、最終的に大隈は薩摩派と手を切る決断をし、第三次伊藤内閣を挟んで、ついに1898(明治31)年に板垣退助と連携による第一次大隈内閣、いわゆる隈板わいはん内閣が誕生します。

第1次大隈内閣は隈板両派の内紛によりわずか132日で瓦解しました。旧進歩党は憲政本党となり、1899(明治32)年に旧自由党は伊藤博文を迎えて立憲政友会を組織します。桂園時代に大隈の存在感は一時薄れましたが、新聞紙上で積極的に発言をし、大規模な遊説旅行をおこなうなど徐々に政治活動を活発化させます。

第二次大隈内閣

1914(大正3)年にシーメンス事件により山本権兵衛内閣が総辞職するとと、16年のブランクののち、76歳の大隈重信が第二次内閣を組織することとなりました。山県閥、薩摩閥、政友会と対抗しながら、世論と宮中の人気を背景に政権を運営します。

1915(大正4)年の選挙に圧勝すると、後継者の加藤高明外相が主導する対華二十一ヵ条要求を袁世凱政権に突きつけます。これに山県有朋など元老が強く反発、また列強が強く反発して日本への信頼感が傷つけられるとともに、日華間の歴史に大きな汚点を残すことになる失敗でした。

辞意を覚悟した大隈は後継首相に加藤高明を指名する異例の内奏を行い執念を見せますが、ついに加藤内閣は誕生せず、山縣有朋・松方正義・大山巌の三元老および西園寺公望の一致した推薦に従い、大正天皇の大命は寺内正毅にくだりました。

大隈はかねてより「人生125歳説」を唱えていました。しかしこの日、ネルギッシュな大物政治家のイメージを残し、83歳で死去しました。

大隈重信(1838-1922)
早稲田大学の大隈重信像


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