見出し画像

【百年ニュース】1921(大正10)11月27日(日) チェコスロバキアの政治家アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubcek)誕生。1968年1月チェコスロバキア共産党第一書記に就任すると「人間の顔をした社会主義」を掲げ,「プラハの春」の改革運動を開始。強権政治を廃し自由化を進めるもソ連介入で挫折。

出生~第二次世界大戦終戦(24歳)まで

チェコスロバキアの政治家アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubcek)がスロバキア西部トレンチーン県のベブラバ川沿岸バーノウツェ・ナト・ベブラヴォウ郡のウフロヴェツ(Ugrovec)で誕生しました。父親はシュテファン・ドゥプチェクは大工でしたが、米国に渡り共産主義者となり帰国しました。1925年に一家はチェコスロバキアからソ連のキルギスタンに渡り、のちロシアの自動車産業で有名な産業都市ゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)に移りました。

1938年の9月29日チェコスロバキアのズデーテン地方の帰属問題を話し合ったミュンヘン会議が英独仏伊の首脳が集まり開催されました。アドルフ・ヒトラーの主張に対し英仏が宥和し、ズデーテン地方はドイツに割譲され、翌1939年3月14日にはナチスの同盟国(保護国)のスロバキア共和国が建国されます。9月1日のナチス・ドイツのポーランド侵攻にはスロバキア共和国も枢軸国として参加しています。

アレクサンデル・ドゥプチェクはミュンヘン会議のあった1938年に17歳でスロバキアに戻りました。現地の地下組織チェコスロバキア共産党に加入し、チェコスロバキア最大の財閥であるシュコーダ(Skoda)のドゥブニカ・ナド・ヴァホム工場で働く傍ら、反ナチスのレジスタンス活動に従事します。1944年8月29日のスロバキア民衆蜂起では二つの傷を負いました。

終戦~共産党第一書記就任(46歳)まで

1945年の終戦後から1949年まではスロバキアのトレンチーン市(Trenčín)の食品会社で働く一方共産党の活動にも加わり、1948年の二月事件(チェコスロバキア事件)により共産党の独裁政権となると、アレクサンデル・ドゥプチェクはトレンチーン地域の共産党幹部のひとりとなりました。

1955年から1958年にかけてアレクサンデル・ドゥプチェクはモスクワに留学し政治学を学びます。留学直後の1956年2月14日から開催されたソ連共産党第20回大会では、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフによるスターリン批判演説により「非スターリン化」が進みました。この時期をモスクワで過ごしたことがアレクサンデル・ドゥプチェクの政治思想に大きな影響を与えました。

1960年代のチェコスロバキアは西側諸国との経済格差が顕著になり始めるとともに、中央集権化と政治・経済システムの硬直化により国民の不満が高まり、国内の混乱が拡がっていました。帰国したアレクサンデル・ドゥプチェクは地元スロバキアで共産党の幹部の道を歩みましたが、政治体制の自由化を推し進める改革派として知られるようになります。

プラハの春

1968年1月5日にチェコスロバキア共産党第一書記アントニーン・ノヴォトニーが失脚し、後任にアレクサンデル・ドゥプチェクが選出されます。ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げ、「プラハの春」と呼ばれる改革運動を開始しました。強権政治を廃し自由化を推し進めます。この政策はチェコスロバキア共産党の保守派の反発を招くとともに、ワルシャワ条約機構加盟各国の指導部からも批判され、自由化阻止の圧力を受けます。しかしドゥプチェクは改革の打ち切りを拒否し、自由化を継続することを宣言しました。

1968年7月にドゥプチェクはソ連のレオニード・ブレジネフ書記長をスロバキア東部のチエルナ・ナト・ティソウ(Čierna nad Tisou)に招き、改革はチェコスロバキアの国内問題であり、共産党体制は維持、ソ連の同盟国としての忠誠にも変わりはないと主張しますが、ブレジネフの疑念を払しょくすることはできませんでした。

1968年8月20日ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻しました。ただちにチェコスロバキア共産党中央委員会ビルを占拠され、ドゥプチェクら改革派の共産党幹部は逮捕のうえモスクワに移送されてしまいます。プラハのチェコスロバキア市民は非暴力で抵抗を試みましたが、最終的にはモスクワに連れ去られたドゥプチェクがソ連共産党に屈服し、改革は頓挫しました。ドゥプチェクは帰国を許されますが失脚し、1970年には共産党から除名されました。

死去(70歳)

1989年11月のビロード革命でチェコスロバキア共産党政権が倒れ民主化が実現するとアレクサンデル・ドゥプチェクは復権を果たし、12月には連邦議会議長として政界に復帰しました。

1992年9月1日、悪天候のなかプラハとブラチスラヴァを結ぶD1高速道路で交通事故に遭い脊椎と胸部に深刻な損傷を受けます。運転手はスピード違反で12カ月の禁固刑を受ける一方、ドゥプチェクは長期入院を余儀なくされます。入院中にドゥプチェクの体調は悪化し、事故から2か月後の11月7日に死去しました。享年は70歳でした。

よろしければサポートをお願いします。100円、500円、1,000円、任意のなかからお選び頂けます。いただいたお金は全額、100年前の研究のための書籍購入に使わせていただきます。サポートはnoteにユーザー登録していない方でも可能です。ありがとうございます。