見出し画像

【百年ニュース】1921(大正10)3月26日(土) 漢学者の小柳司気太が宮内庁派遣で1年間中国研究に出発。明治期の急激な西欧化一辺倒は大正期に見直され,漢学への関心が高まった。小柳は当時の漢学の権威。学習院,国学院,慶應義塾を経て1940(昭和15)大東文化学院学長となるが死去。

小柳司気太(おやなぎ しげた)は1870(明治3)新潟県小吉村(のち西蒲原郡中之口村)生まれ。6歳から漢学に親しみ,西蒲原郡吉田町の私塾『長善館』,のち東京帝国大学文学部に進み博士号を取得。『文検漢文科合格秘訣』大同館書店(1931)で「東洋を知らんととするには漢文を必要」と強調。大東文化学院学長在職中に69歳で死去した。

画像1

画像2

小柳司気太


よろしければサポートをお願いします。100円、500円、1,000円、任意のなかからお選び頂けます。いただいたお金は全額、100年前の研究のための書籍購入に使わせていただきます。サポートはnoteにユーザー登録していない方でも可能です。ありがとうございます。