【百年ニュース】1921(大正10)11月11日(金) ワシントン会議が開催される。翌年2月世界史上初の軍備制限条約である海軍軍縮条約が締結される。また中国の領土保全と門戸開放を定めた九か国条約締結のほか,米英日仏による四か国条約によって日英同盟は廃止されることとなった。
ワシントン会議が開催されました。アメリカのウォレン・ハーディング大統領の呼び掛けで米国の首都ワシントンで翌年2月6日にかけて開催された国際会議です。参加国は日本、米国のほか、英国、フランス、イタリア、中国などの9か国です。
議題は次の3つでした。すなわち、(1)海軍軍縮、(2)極東問題、(3)太平洋問題です。日本側で責任者となったのは最初の(1)海軍軍縮に関しては日本全権加藤友三郎海軍中将、残る(2)極東問題と(3)太平洋問題は日本全権幣原喜重郎米国大使でした。
(1)海軍軍縮に関しては、日米英の三国の軍拡競争に歯止めをかけることが目指されました。特に第一次大戦で疲弊した英国と、戦後不況に苦しむ日本にとっては、軍事予算膨張による国家財政への過大な負担が懸念されていました。また程度の差はあれ日米英の三国すべてで軍縮を求める世論の高まりが見られていました。その意味で建艦競争に歯止めをかえる海軍協定を結ぶことは三国いずれにとっても理にかなった政策でした。翌年2月世界史上初の軍備制限条約である海軍軍縮条約が締結されました。
問題となったのは三国の保有比率です。米国が主導する形で、米国5:英国5:日本3でまとまります。現有戦力だけを基準とすれば最も不利だったのは英国です。この条約により実質的に英国は長年維持してきた海軍力世界一の地位を米国に明け渡しました。また日米の国力差を考えれば対米6割を認めた米国は日本に配慮したとも言えました。仮に自由競争のままであれば米国は日本を大きく上回る海軍力を保持することが可能でした。
しかし日本海軍側は首席随員の加藤寛治少将が対米7割を強行に主張し会議が紛糾します。その意見を抑えて政治的決断を下し比率を受け入れたのは加藤友三郎海軍大臣でした。会議直前に暗殺された原敬首相の対米協調を最優先させる方針に従い見事に決断しました。また同時に加藤友三郎は対米6割を受け入れる埋め合わせとして、条約中に有名な第19条を挿入することに成功します。すなわち太平洋上の「島嶼たる領土および属地」における新規の要塞や海軍基地の建設禁止です。この条項により米艦隊は太平洋での作戦行動に厳しい制約が課されることとなりました。
(2)極東問題とは、米国が主張する中国の主権尊重、門戸開放、機会均等への対応を指しています。日本は山東権益の返還方法で中国と対立しましたが、米国全権エリフ・ルートは中国側の主張を退け日本側が主張する特殊権益に配慮する「四原則」を打ち出しました。すなわち①中国の主権、独立、および領土的・行政的保全の尊重、②中国の安定政権樹立のためのの機会付与、③商工業の機会均等主義の樹立、④友好国国民の権利を脅かす特権を認めず、です。この四原則を基礎に九か国条約が締結されました。
(3)太平洋問題とは、太平洋地域の平和を維持する仕組みの構築に関するものですが、要するに日英同盟の取り扱いが議題となりました。交渉は三段階を経ます。まず第一段階の英国バルフォア案、第二段階の日本幣原案、第三段階の米国ヒューズ案です。バルフォア案は従来の日英同盟に米国を加えた三国協商案ですが、軍事同盟を含むものであり米国が受け入れません。そこで日本の幣原は重大問題が起こったときのみ三国で相互に相談する協議条約案に修正します。最終的に米国ヒューズはそこにフランスを加えて四か国条約とすることを提案し、これが実現します。
日本全権の幣原は英国との同盟関係継続よりも米国との協調を選択しました。四か国条約により日英同盟が廃棄されたことに関し、もし日英同盟が継続されていたら太平洋戦争は起こらなかったのではないか、とする説があります。しかしこの説は単純に過ぎます。英国側に強力な日英同盟廃棄論があり日本側の意思だけでは継続が難しかったこと。また日英同盟の廃棄から太平洋戦争の勃発まではさらに20年もの歳月があり、この期間に大きな国際環境の変化が起こり、日本の政策にもより重大な変化が起きているからです。ワシントン会議のタイミングでは、日米協調を優先した判断は妥当なものであったと考えられます。