平野啓一郎さん『ある男』感想

 たとえば信頼していた相手の素性がまったくの嘘であることがわかったとき、あなたはどう反応するだろうか。過去は逃れられない呪縛であって、それを乗り越えることはできないのだろうか。
 苦難の境遇が強いた自己嫌悪と自己欺瞞の果てに、まったくの「別人」として生きなおす方法はある。しかしその生もまた、それまでの半生とともに〈分人〉のひとつではないか。自分の過去を否定しようとしても無化することはできず、他者の正確な過去を知ることもできないなかで、それでもいま、ここにいる相手の全体を愛しうるか? 
  「一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう?」という美涼のしなやかな生き方と、弁護士・城戸の他者に対する繊細な想像力と、文豪の言葉をしかと受けとめた中学生・悠人の静かな涙が忘れられない。

書籍 平野啓一郎さん『ある男』文藝春秋、2018年。装幀は大久保明子さん。

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