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「ドリフターズとその時代」笹山敬輔 著 文春新書

ドリフターズは、いかりや長介が作ったのかと思っていたのですが、そうではありません。いかりや長介が参加する前からドリフターズは存在していました。そのメンバーがすごい。1958年当時は、ボーカルが山下敬二郎で、テストを受けてバンドボーイ(付き人)になったのが坂本九です。


いかりや長介は、寺内タケシのバンドにもいたことがあります。紆余曲折を経て、いかりやは、1962年にドリフターズに参加しますが、すぐ後加藤茶、そしてボーカルとして小野ヤスシ、専属シンガーとして16歳の木の実ナナが参加しました。

やがて、小野ヤスシがいかりやと対立し脱退、ドンキーカルテットを結成します。加藤茶が残り、その後、いかりやの奔走で、高木ブー、荒井注、仲本工事が加入します。


志村けんがバンドボーイとして参加するのは、1968年です。荒井注の脱退と入れ替わりで正式メンバーになるのは1974年です。やっと、ここで多くの人の知っているドリフの最終メンバーになります。

いかりやは、ハプニングがキライで、徹底的にコントを作り込むタイプでした。週に1度の「8時だよ全員集合」のために何度も会議を行いリハーサルをして、一発勝負の本番に挑むのです。大掛かりなセットに車が飛び込むなどのとんでもない演出もありました。「8時だよ全員集合」は、実際に観客の前でドリフが演じるのを生中継するスタイルで、一発勝負ですし、膨大な経費がかかりますし、今では、とてもできない作り方です。


加藤茶は、いかりやと違い、そこにいるだけで笑いが取れるコメディアンです。彼が初期のドリフの人気の中心でした。1972年には、伝説のギャグ「ちょっとだけよ」が登場しました。当時小学生がマネして、PTAのお母様方が抗議したこともありました。そして、全員集合の視聴率は50%を超えることもありました。あり得ない数字ですね!?しかし、加藤はいかりやの後継者ではなかったのでしょう。スタイルが違うのです。加藤はグループを一つの方向に持っていって作り上げていく演出家の要素よりも、天才的なコメディアンの才能の方が圧倒的に勝っていたのではないかと思います。

いかりやはドリフのメンバーの中で、志村だけには自分と同じ匂いを感じていたようです。いかりやは、志村と二人で酒を飲んでいた時、「お前、俺に似てるよな」と、志村に語っています。


とぼけた印象の志村は、実は笑いに対しては、大変な理論家でした。志村はテレビ局ディレクターに、毎週絶頂期だったコント55号の台本をもらいにいったのだそうです。また、邦画洋画を問わず大量のビデオを鑑賞し、照明やカメラワークの研究を積み重ねました。


いかりやも志村も目指したところは同じなのでしょう。誰もが一緒に楽しめる、地域、年齢、階層を越えた普遍的な笑いを志向していました。


ネットの広がり、YouTubeの登場などにより、特定の視聴者に向けて番組を作っていく傾向が強くなっています。いかりやや志村が目指した笑いは、今や実現不可能なのかもしれません。


<人間、つらいことがあっても、笑っていれば、瞬間、そのつらさを忘れることができるじゃないですか。たとえ一瞬でも・・・・。そういう笑いをつくれば、僕は十分なんだけどね。人に夢を与えようとか、エラそうなことは思わない。レベルが低いと言われようとも、夢をもてないような人たちにも笑ってもらい、つらさを一瞬でも忘れてもらえば「上等だ」と。>(『BIG tomorrow』1999年3月号)・・・これは、志村けんの言葉です。彼の思いが凝縮した言葉だと思いました。


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