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メメント・モリ~わたしの命の使い方~講座 その1

2年前に卒業したこころとおうちの片付け塾の卒業生サロンにて
メメント・モリ~わたしの命の使い方~講座を9月・12月と2回
開催いたしました。

4年間で5人を看取った経験

4年間で5人の死を看取った日々を思い起こすと、その同時期に子ども達の受験という節目と重なっていたことや、亡くなった後の様々な事務的な作業に追われて、ゆっくりと哀しみに浸る余裕がありませんでした。そして5人を看取った後に自分自身が癌になったことで、自分の事で精いっぱいでしたので、彼らの死と生にゆっくりと向き合うことができていませんでした。

あの頃、「なんか毎年喪中だね」と12月に知り合いに言われたこと、それから「おかあさん、もう誰かが死んじゃうの疲れた」という息子の言葉が本当に胸に刺さり、これで自分も癌で死んでしまったら子どもたちの心はどうなってしまうのかと不安でした。

マスタータイムコーディネーター

今回このメメント・モリ~わたしの命の使い方~講座を開催することにした最大のきっかけは、私がタイムコーディネート®(通称TC)に出会い、TC手帳をツールにしつつ自分の心地よい時間の用い方を模索し、自分の時間を心地よくしていくことは、心地よい自分の人生を作り上げることだという気付かされたことにあります。

タイムコーディネート®するという前提にまず≪時間は有限≫だという認識が必要となります。私たちはこの世に、地球上に生まれてきた時に死ぬことを約束されておぎゃーと泣いて出てきて、今こうして生きています。

問題は終わりが見えないことです。ゴールのない道をひたすら歩いているような感覚ですが、実は神のみぞ知る終点があるのです。TC(タイムコーディネート®)ではそのゴールはいつなのか分からないからこそ、今をどう生きるか、今日をどう過ごすか、色々な角度から考えて、手帳を使って実践していきます。

2022年6月から11月の講座期間を経てマスタータイムコーディネーターの資格を取得し、今後いかにタイムコーディネート®をお伝えしていくかを深堀りしていきました。そしてタイムコーディネート®する前に、いかに自分の命が有限であるかを知るワークをして臨んでほしいという私個人の思いがあり、このメメント・モリ~わたしの命の使い方~講座を設計していきました。

メメント・モリ

メメントモリとは≪死を想え≫というラテン語ですが、大学時代に社会史を専攻し、主に子どもの誕生と死について研究していた中でヨーロッパ中世のペストの蔓延、そして厳しい社会情勢の中で人々にとって死が今よりももっと身近だったことから生まれたこの言葉は私の心に刺さったのです。以来自分のモットーとしています。

死が怖かった

大学入学と同時に祖父を亡くしたのが私にとって生まれて初めて見た≪死≫で、動かない、冷たくなった祖父をみて恐怖を覚えました。顎が開かないように押さえておきなさいという叔母の頼みで手伝ったものの、亡くなった祖父の顔が生きていたころとは全然違うようで、手に伝わってくる生きていない人の温度はさらに私の心まで凍えさせていくような気持ちでした。それは祖父が亡くなったことへの恐怖ではなく、死体を前にして身体から温かさが失われ、そこにあるものは人というよりは、死体という物に変わっていく瞬間に怯えていたのでした。

旅立つ弟のその瞬間

さらに、その3年後には弟を亡くしました。大きな窓からみえる雪がしんしんと降る中、病院のベッドの周りにはなぜか多くの看護師さんが集まりすすり泣きし、母の「まだあなたやることあるじゃないの!」の声、皆の逝かないでほしいという想いやその場の雰囲気は何度思い出してみても違和感しかありませんでした。

今逝こうとしている人をとどまらせることはできないからです。確かに逝かないでほしかったけれど、どうしようもないのです。その時が来るのです。その瞬間になって逝くなと言われた弟の胸の内を想うといつも悲しくなります。

逝ってしまうその瞬間をどうするか。自分ならどうしてほしいのかと何かにつけて考えている自分がいます。そして4年前に母を看取ったホスピスでの看護師さんのアドバイスで、さらに確信しました。

逝くとき

気持ち良く旅立ってもらうこと、がいかに大切かということです。

看護師さんのアドバイスは「痛みがあったら、必ず眉間にしわがよりますから、痛みを取り除きましょう」「眠っているように見えますが、うっすら意識が戻っていることがあるので、そばでお話してあげてください」「最期の瞬間におかあさん!いかないで!とか死なないでと言わないでください。」

ホスピスでの母

ホスピス入った数日間、家ではよくテレビを見ていた母に楽しそうなテレビ番組を選んで、大きな画面のテレビをつけておくと時々うっすら目を開けて「なんじゃこりゃ」とつぶやいていたり、「もう○○(孫)ちゃん達連れて帰っていいわよ、ご飯たべさせないとね」と言い出すこともありました。

あるとき、急に私の飲んでいたジンジャーエールを飲みたいと言い出しました。もう数日飲まず食わずだった母。看護師さんに相談し、ストローで飲ませようとしたところ「ごくごく飲みたいの」という母のことばに、看護師さんと悩んだ末、辛そうな決断でしたがゴーサインをもらい、2口ほど口から飲み「あー美味しい」と本当に笑顔で喜びました。それが彼女の最期の飲み物となりました。

枕の上、母の耳元で母のスマホから好きな音楽を24時間かけておき、時に音楽を止めて私や子ども達(孫)が「ばーばの作ったパスタは絶品だったね、美味しかった」「八ヶ岳でバーベキューしたの楽しかったね」「あっちへ行ったらまたじいじたちに美味しいもの作ってね」「あっちでもボルボの運転するのかな、スピード気を付けて」などなど、思いつく限りの思い出や、今後のこちらのことは何も心配いらないということ、そして母への感謝の気持ちを伝え続けました。

ホスピスに入って5日目のお昼前。母はホスピスではありがたいことに機械には繋がれていませんでしたが、病室に来た看護師さんが母の手足の皮膚の色などを見て「あと数時間だと思います」と耳元でささやいてくれました。

その時

そしてその時は来ました。呼吸がとぎれとぎれになり、息を吸っても吐かない瞬間が数回。そして吸ったまま旅立ちました。息を引き取ったのです。その時、弟には言ってあげられなかった言葉を言うことができました。
「いってらっしゃい、またね。大好きだよ」

私も逝くときはこう言ってもらいたいし、しゃべれなくても心で「いってきまーす」と叫べたらいいな・・・

1年間の猶予だった

そもそも母が難病だと告げられたのは亡くなるちょうど一年前のこと。その病に罹患してからの平均余命は8年ほどなので、母はまだまだ大丈夫だと思って私はのんきに過ごしていました。

しかし病名が分かってから10か月後、検査で全身に癌があることが判明し、余命宣告されました。

忘れもしない1月15日。娘の出願の日だったため、ドクターの説明を母と共に聞くことができず、私は病院に到着するとすぐに屋上のレストランで残酷なことに母の口から検査結果と余命について聞きました。泣かずにはいられず、その一瞬、前の年の一年間を母はまだ大丈夫だろうと思って過ごした自分を後悔しましたが、すぐに気を取り直して聞いたのが

「なにしたい?」

この残りの一日一日をなんとしてでも後悔してもらいたくないと思い、その場で書いていきました。しかしながら母は一年前に難病と分かってからすぐに死ぬと思っていたから、この一年はおまけの一年だったのよ、ともうすでにやりたいことは数個になっていました。その件はまた別の機会で書きましょう。

何をして生きたいか

この時の作業と経験を基に、余命を宣告されてからやりたいことを書き出すように、未知の余命を考えて自分の人生を歩むことができたらどんなに有意義になるかと考えてきました。自分の余命は、自分の命そのもの。その命を自分らしく、自分がやりたいように使う。それは決して自暴自棄になり、好き勝手に生きる事ではなく、むしろもっと丁寧に自分の生を満喫していくことではないでしょうか。

生とは、自分の命を使う事に他なりません。私の命は私だけのもの。他の誰にも使わせてあげることはできないのです。

メメント・モリ~わたしの命の使い方~講座

あなたの命をどう使っていくか。それをメメント・モリ~わたしの命の使い方~講座ではお伝えしました。
講座の構成は
①   私の看取った5名の祖父母両親の生と死について。特に亡くなる瞬間について。
②   自分の命を有限なものであることに気付くためのワークを4つ。
③   宿題として自分の葬儀をイメージするワーク

2時間で行うには駆け足でしたが、今後はこの講座をタイムコーディネート®の講座の一部としていき、人として生を受けた私たちがみんな心地よく毎日をすごしていくお手伝いをしていきたいと考えています。





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