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 明晰夢というものをご存知だろうか。
 目の前に一冊の書物がある。ぶ厚い装丁の単行本で、カバーは付いていない。黄ばんだ厚紙がむき出しになっているが、どこにもタイトルらしきものは見当たらない。何の絵や紋様も施されていない。小口もすっかり焼けて赤褐色をしている。だいぶ古い本らしい。
「それが父の本」と誰かがあなたに言う。
 なかには短い物語や断章が無数に収められている。一つ一つはとりとめが無く、唐突に始まり、唐突に終わる。あなたは各駅停車の駅を一つ一つ降りるようにしてそこにあるすべての物語をあなたの中へ移し替えなければならない。それが父の遺志だからだ。あなたは本を開く。中表紙も、目次もなくいきなり本文が始まっている。「1」と、冒頭に無機質に書かれている、あなたは読み進めるに従って、と最初の文章が始まっていく。あなたは読み進めていくが、次第にあなたが本文を読んでいるのか、それともこの文章自体が本文なのか、あなたは分からなくなる。と文章は続いている。そこで唐突に文章が終わり、次の行には「2」と無機質な数字だけが穿たれている。そのように文章は続いている。そのような書き出しから次の章は始まっていた。あなたは、と文章は続けた、次第に森の奥深くへさ迷い込んでいくように言葉の鬱蒼とした茂みの奥へと入り込んでいった、次々と短い章が連続し、数字は機械的に更新されていった。そのように文字列は書き続いていた、木々は樹齢と高さを増し、辺りは段々と暗くなっていった。あなたは暗がりの中で頁をめくる手が覚束なく、手元は闇に沈んでいるので自分が今第何番目の章を書いているのか、どこまで文章を書いたのかもはやわからない。直前の句はどのように途切れていたのだったか? あなたは次に何を書こうとしていたのか最早自分が全く覚えていない事に気づいた。今まであなたが書いて来たものはこうして存在の根拠を失ったために、最早泡沫のように崩れて消えるだろう、父の名を呼んだあなたは最早存在しない父自身だった、こうしてあなたはどこからも到達せずどこへも到来しないまま、あらゆるかつてを失った。あなたは泣き叫んだ、恐ろしい泣き叫び声が聞こえて目を覚ます。

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