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わたしたちは屋内に無限に陳列されているかに見えた仏像の、照明がないために仄暗い、延延と続く土間の上を進む。わたしたちは果てしなく並べられた仏像が全て一つのオリジナルの夥しいレプリカントに見えるけれども、そうではなく彼らは一つのオリジナルへ還元されることに違いないが、その終わりのないヴァリエーションなのだと学芸員は語った。
「終わりのない?」とわたしたちの一人が学芸員に問うつもりでもなかったが上げた声を学芸員は、
――というのもこれらのヴァリエーションは未だ制作され続けている為です。
とわたしたち全員が聞こえるような、しかし決して厳かさは欠かさないようにとでもいう様に抑揚が配慮された声音で応じた、
「制作され続けていると? 今も?」今度こそ確実にわたしたちの一人が学芸員へ問いかける調子で声を上げた。
新たなヴァリエーションがもたらされる度に、と学芸員はまるで質問の有無に関係なくあらかじめそう続けることが義務であるかのように。我々は施設を増築します。実際にこの後ごらんになって頂きますが、と学芸員は闇へと落ち込んだ道の先を示した、遠方に光がご覧になられるでしょう、あの辺りはまさに今増設を進めている最中で大勢の大工が立ち替わり昼夜不断で働いてございます。ヴァリエーションはいつ、どのような形でもたらされるか知られていません、“誰”によって――実際これらヴァリエーションの作者は、ヴァリエーションに限り無く近い数だけ存在していると近年の論文で報告されています――もたらされるかという事も不確かなのです。実際、と学芸員は続けた、オリジナルはそもそも存在しているのかということが現在の議論の中心となっています。我々にははじめから“ヴァリエーション”しか与えられていないのです。“ヴァリエーション”であるという事は根源(オリジナル)がはじめに存在すると当然考えられるべきですが――実際我々も永年そのように検討して来た訳ですが――そもそも根源は存在していたのか? あるのはここにご覧になっている通り、学芸員は歩きながら大仰に両手を広げてゆっくりと一回転した、不断に更新され続ける限りないヴァリエーションだけなのではないか? そもそも“根源(オリジナル)”とは、目に見えて、手に触れられるものとして、在って良いものでしょうか? 我々はただ真理を通じてだけに、それへの触れること(アクセス)が許可されているだけではないですか?
「失礼ですが」とわたしたちの一人が言った、
「あなたはそれを倫理的な命題として提示していますか、どうですか」
学芸員は歩みを止めなかった。代わりにゆっくりと遠方を指し示した。
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