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聞かず知らず言わぬ愛が、此処吉原。

源氏名とは、元は『源氏物語五四帖』の巻名にちなんでつけられた宮中の女官の名を言った。それが受け継がれ今はこの産業の名になったという。

ボーイさん達の名も本名なのかは知らない。時折顔を合わせ挨拶するキャスト達の名は大抵平仮名。私はここでは"ささら"だ。苗字も肩書きも何もかも背負わない、ただの、ささら。


笑顔で夜に「おはようございます」と挨拶する彼の事も。すれ違いざまに「お疲れ様です」という彼女の事も。冗談交え笑い合いながら「また明後日に」と手を振る彼らの事も。何一つ知らないのだ。何一つ知らない、だから背負わない、気負わない、この軽さが私は好きなのだ。水よりも軽い。ある意味ネットの世界と似ている。ハンドルネームしか知らないが、趣味趣向はようく知っていて、むしろ普通に出逢った人よりも深い話をして、気付けばいつの間にか消えている。儚いけれど、その軽さでしか触れられない優しさがある気がしている。無責任と冷たさは、比例しない。

キャストはさることながら、ボーイも堅気の仕事より手取りはいい。何かしらの理由があって、皆が此処に居る。昔の吉原ように、途方のない借金を抱えている人もいるだろうし、なんとなくで居る人もいるだろう。仕事が好きな人もいれば、せざるを得ずになんとか日々シノいでいる人も。誰もそれを訊かない。触れてこない優しさが此処にはある。


人前で泣くのが苦手だという友人がいる。泣くと、理由を訊かれるのだという。どうしたの、大丈夫?と、皆が優しく手を差し伸べる。けれど、「ただ泣きたい」時に、それはむしろ邪魔なのだ。優しさの裏に、時に「理解し把握することで安心したい」というエゴがある。人の性だ、理解出来ない物に不安と恐怖を覚えるのだ。その説明をしているうちに、涙が引っ込んでいる。泣きたかった感情が失われている。果たして、優しさとは何なのか。

周囲に理解して貰う。説明責任を負う。理解を得られなければ選んではならない。説明すれば同情される。同情するくらいならば金をくれ、とはよく言ったもの。けれど金だけでは生きられないのと同様、金の為だけでは動くことがままならないことも多々あるのがこの世の常。そも、金の為に体を売るのはこの業界に限った話ではない。アングラなこの世界と、ブラック企業と、果たしてどちらが闇が深いのかは当人達のみぞ知る。比べようがない。


少なくとも、どちらも優しさなのだ、と思う。どちらも人と人の営みなのだから、私はどちらも好きだ。エゴ混じえた差し伸べる手も、何も訊かずに朗らかに交わされる挨拶も。

ただ、間違い無いのは、軋むベッドの上では私も相手も間違いなく生きていて、肌には温もりがあって、心音が肉越しに聴こえること。それだけで、もう充分な気がしている。優しさの定義より、何が正しいかより、その事実の方が、余程この言葉にならない疑問への答えな気がしてならない────。

出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。