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見の見えない人は世界をどう見ているか?

行きつけのマッサージ屋の指圧師は視力が弱い。ただ、それを知ったのはだいぶ仲良くなってからで、それまで気がつかなかった。

そんなこともあり、目が見えない、ほとんど見えない人はどのようなことを思っているのかいうのをずっと知りたいと思っていた。

人は視覚で様々なものを判断している、五感の頂点が視覚であるからだ。
道を歩くときに、目からどのようなものがあるか道が曲がっているかまっすぐかなど様々な情報を見て判断している。

では目が見えない人はどんな風にして判断しているのだろう。

『目の見えない人は世界をどう見ているか』という本には、実際に目の見えない人にインタビューしながら、目の見えない人はどのように世界を見ているかと言うのをテーマに本を書いている。

面白いのは福祉的な本ではなく、目が見えるのと目が見えないとではどのように物の捉え方が違うかと言うところ中心に書いているところだ。

インタビューに応じてくれる方も生まれつき弱視て失明した方、だんだん見えなくなった方、交通事故で失明した方と様々だ。
この本で印象に残ったことを書いて行こうと思う。

情報ベースで判断すると目が見えない人は劣位に立たされる

小学生の頃、弱視になった方でこのような経験があったそうな。

親友が来てくれたんだけど、『よお!』みたいな和気あいあいとした雰囲気にならなくて、『はい、じゃあ行きましょうか』というような事務的な感じで、何も喋らず移動していったんですね

目が得られる情報が遮断された人と言う物の見方をすると、助けないといけない状態に、結果的によそよそしくなるそうだ。

インタビュイーは中のいい友達とわきあいあいと学校生活を送りたいのに、急によそよそしくなって、面白くないと思ったそうだ。

お互いに失敗や恋愛やいろんなことを人として打ち明ける和気あいあいにならないのは「サポートしなければいけない」と言う縛りからくる緊張感だと、決して悪気があるわけではなくむしろ善意でそのようになってしまっていると筆者は言う。

そもそも、障害についての考えが偏りすぎていないかと筆者は問いかけているように思う。

見えると言うのは視覚の専売特許か。

目が見えないから、触覚や聴覚が『すごい』と思っている人が多い。確かに積極的に使っているので、そうかもしれない。ただ、特別視はしないで欲しいと言う。

そもそも五感というのはしっかり分けられず、視覚以外で見ることもできると筆者はいう。例えば、点字は触る物ではなく、読む物ではないかと。

おそらく、見るということを『機能的』に考えると視覚になるが、『意味的』に考えると視覚がなくても見れると言っている。

確かに考え方を「ものの見方」と言ったりするが、これは視覚的なものではない、見るという行為は目がなくても出来るのではと思った。

目が見えないと体の使い方が変わる

白い杖を持った人が電車に乗ってきた。電車が急減速をした時、周りの人はよろけた。白い杖持った人は微動だにしなかったという。

目が見えなくなると常に注意を払っているため、転びにくくなるという。
足下に注意して重心移動をしているため、危険を感じたらすぐに重心移動をして対応しているためだという。

視覚がない分、別の器官を使って様々な運動に対応している。

ブラインドサッカーという競技がある。目の見えない人のシュートを止めるのは難しいという。

目が見えないため、選手は表情を作らず顔から次の行動が見えないからだという。そして、もう一つにドリブルに仕方が関係しているそうだ。
ボールを安全に運ぶ食べボールを囲い混みながら、細かくドリブルをするそうだ。
健常者のドリブルがボールから離れるため、シュートを打つときはボールに飛び着くため、タイミングがわかるが、ブラインドサッカーは常に足も元にボールがあるため、どのタイミングでシュートがくるかわからないらしい。サッカー選手で言ったら、メッシのようなドリブルをするらしい。

視力がない分、それを補うために足の感覚、平衡感覚、イメージする力を駆使して、健常者とは違う身体の使い方をするようだ。

障害とはなんなのか

目が見えないこと自体が障害なのではなく、目の見えない人が暮らせない「社会」が障害なのだと言う。

障害者とは社会的弱者と考えること自体に障害がある言っているように思える。

偏った視点から見て、意識せずに上下関係で見てしまう。そうすると見れる物が見れなくなり、せっかくのチャンスを失うことがある。

まとめ

『目が見えない』とはどういうことか。

もちろんハンデではあるが、目が見えない人は目が見える人とは別の感覚を持っていることがある。ただ。それを特別視をしてはいけない。
特別視をすると上下で見てしまい正しくものを見ることできないと思った。

なぜ「障害者」とわざわざラベリングする必要があるのか、そんなラベル付け生活をする際に必要ではないと思った。
※もちろん、目に見えない人のための物理的な環境を作ることは必要だ。

人を歳をとってくると何かしらに障害を持つようになること多い。目が見えにくくなれば、足腰も弱ってくる。でも出来る範囲で楽しく生活したいと思っていると思う。

それは人にただ助けられて生活するのではなく、助け合って生活して行きたいと思っているはずなのだと思う。

それは目の見えない人やその他に障害を持った人も同じだと思う。

「『見る』とは?」「『障害者』とは?」

この本はそんなことを考え直すきっかけになった。


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