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コピーライター、311に思う。

今日は、3月11日。
東日本大震災が起こった日です。

僕は東北の出身です。
家族や友人、知人に被災した人はいませんでしたが、辛い思いをされている被災者の方々の東北訛りの言葉をテレビやラジオで聞く度に、とても悲しい、やるせない気持ちになったものです。

被災地に行って、何かできることはないかとも、何度も考えました。
けれど、僕には鎌倉で仕事がある。鎌倉に家族がいる。それらを投げうって被災地に行く決断は、僕にはできませんでした。

せめて自分にできることをと思って、少しばかりですが募金をちょくちょくしました。
それくらいしか、僕にはできませんでした。
自分の無力さを実感したものです。

でも、今ふりかえると、それで十分だったのではないかと思います。

東日本大震災から、今日で12年。
これだけの年月が経つと、さすがに世間の関心も薄れます。
メディアが取り上げる時間や数なども、年々減ってきています。
(東日本大震災から一年後の3月11日には、各地で様々な震災関連のイベントが行われ、天皇や総理大臣が出席した大規模な慰霊祭的な催しがテレビで中継されていたことも記憶しています)

これは、自然なことではないかと思っています。

「311を忘れない」「風化させてはいけない」、そんな言葉を、3月11日が近づくと、よく見聞きします。いや、最近は「よく」ではありませんね。時折、見聞きします。
震災前の暮らしに戻れていない被災者の方がまだいらっしゃることや、解決していない原発問題などを考えれば、その通りでしょう。

ですが、東日本大震災のあとも、様々な災害が起こってきました。
海外まで目を向けると、数えきれないくらいかもしれません。
それらに伴い、被災者の方々も数多く存在してきたわけです。

被害の大きさ、被災者の人数で、扱いを変えてはいけないと思うんです。
東日本大震災は「1000年に一度の大地震」とも言われるほどインパクトの強い災害でしたが、特別扱いをされるものではないと思うんです。

東日本大震災が起こった後、日本中から様々な人たちがボランティアを行うために被災地へ向かいました。
それができなかった僕は、シンプルに「すごいなあ」と思ったものです。

でも、東日本大震災に”乗っかる”人たちには、大きな違和感を抱きました。
一見するとそれらもボランティアのようではありましたが、ちょっと引いた目で見ると、被災者の方々のお役に本当に立っているんだろうか? と感じました。

言い方は悪いですが、売名行為のために震災を利用しているように見えたんですね。
「被災者の方々のために、こんなことしました」とSNSで発信する人もよく見かけましたが、仮に被災者の方々のお役に立っているのだとしても、わざわざ自分で発信しなくてもいいだろうに、と。

僕は東北の出身なので、東日本大震災の被災者の方々のことを今も思います。
ですが、311からしばらくの間、コンビニやスーパーに置いてあった、東日本大震災の復興のための募金箱は、今では見かけなくなりました。
だから、その募金を、僕はしなくなりました。
東日本大震災復興募金をやっている団体などを探せばあるのかもしれませんが、そこまでする気はありません。

戦争中のウクライナや、トルコ・シリア大地震のための募金箱を最近は見かけます。
ほんの少しですが、僕はそこに募金をしています。

悲しいことですが、自然災害はどうしても起こります。
戦争や紛争も無くなりません。
食糧不足に苦しむ国もあれば、難病に苦しむ人たちもいます。

全部が全部は無理ですが、できる時、気づいた時に、僕は募金や寄付をしています。

これでいいんじゃないかと思うんです。

非日常に苦しむか方を慮るのは良いことです。
でも、慮る人たちまで非日常に没入してはいけないような気がします。
日常にいるべきではと思います。

世の中のために、できることをできる範囲でやる。
その形が、僕は少額ですが、募金です。

さ、今日も頑張って仕事をしよう。
働いて、お金をいただいて、そこから少しですが、コンビニに行ったら何かに募金をしよう。
それが、コピーライターである僕にできる、311です。





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