私がなぜ愚か者なのか
もう随分前の話。
私は過去に悟りのような感覚に陥ったことがありました。
その真偽はさておき、その際に私はこう思ってしまったのです。
「やったー!!」と……なんと愚かなことでしょう。
いま思い返しても恥ずかしいその時の心持ちは、他者への優越に外ならぬものでした。
これまで惨めな人生をおくってきた自分を慰める効果も秘められていたことは言うまでもありません。
自己啓発やスピリチュアルが訝しがられる理由は、どこかこうした邪な匂いが仄かに香るため。(勿論すべてがと言いたいわけでなく、色々な人がいて価値観も様々である前提での話)
せめて自分だけが良ければいい。
他の人たちよりも美味しい思いをしたい。
心のどこかでこうした思いが僅かでも燻っている限り、豊かな生活への憧れやお金に対しての執着を完全に手放せていない証拠。
自分らしく、あるがままの人生を謳歌している人は、もう本当にすぐわかります。
彼らは思い付きをすぐに実践し、その行動の結果を速やかに仲間たちにシェアし続け、些末なノウハウとか精神論を超えた活動をしているからこそ、沢山の支援者がいて幾重にも繋がりが増えていきます。
誰も彼もがそうした存在にすぐになれるわけではないとはいえ、コツコツ自分らしく歩みを進めていけばいつしかそうなれるのです。
それなのに自分の立場や心根の弱さを自ら享受した結果、多くの人々が自分を慰めるような生き方を選択している。
その上どうしたわけか、そうした人々ほど何年も何年も同じ主義思想の中を生き続けているように見えるのです。
それまでの自分のやり方に固執し、自分とは無関係の生き方にまで当てはめて意固地になり続けている。
まさしく私がそうでした。
それこそ針の穴を通すような、一発逆転のロジックがこの世には隠されているのではないか。
自らを省みることを恐れ、長い間外向きの意識の海原を彷徨い続けました。
そもそも興味本位でない情報収集は、自分さえよければ、他の誰かよりも良い思いをしたいという心の表れ。
そんなことよりも今身近にいる存在に優しくするべきでした。
そして何よりも、自分を労り慈しんであげねばならなかったのです。
外に意識を向けて無いものをねだり、駄々をこねるのは幼少期の子供。
でも間違えたくないこと、それは自分の中から意欲が出てきたら全力疾走。
周りなんかどうせ見えない、だから形振り構わず進む合図。
結局のところ最終的にたどり着くのは自分本来、あるがままでよかった。
でればこそ自分の周りの情報、○○の法則とか、スピリチュアルとかはただのきっかけに過ぎなかったことに気付ける。
だからこの法則さえ知っていれば絶対大丈夫!というものは存在しえない。
すでにすべての人々が実は自分を生きていて、そのことに気づくためにこそ自分を取り巻く現象が起こり続けているのだから。
そのことに気づいたからといって私が愚か者から賢者に成りえるのかといえばそうではない。
愚か者であり続けることが、私の生きる筋道。
それが人間として生まれた私の宿命だから。
だから今日、このような愚かな文章を書いている。
タイトルフォト
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。