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沈黙とは即ち、金である。

ついつい周りの環境や他人に対し、非難や批判や否定をしてしまいがち。
しかしその一方で、自らの否定的な行為が何の意味もないことを自らの人生から学んでいる。

周りを否定したその瞬間には心の安息を得る、しかしどんなに道理の通った私たちの言動も空しく、肝心の周りはその後どんなに時間が経ったとしても、結局は何の変化にも至らない。

そのことに強い憤りを感じることにより、自身の一時的な甘美なる心の安息のため、その後も繰り返し周りを否定した人生を送ることになるのだ。

そんな無駄とも思える人生の中を、私たちは生きている。

周りは変えられないばかりでなく、変えようとする存在に対して、全力で抗おうとしてくるもの。その力は凄まじく、良かれと思って行動した側が、心身ともにダメージを負うこととなる。

であるならば、はじめから周りに対して否定的な行動を起こさなければよいということになる。

行動を起こさないでいる内に、やがて自分の意識が変わり始める。自分の目の前にイライラするような出来事が起こったとしても、そのことに対して否定的な感覚が起こらなくなってくる。

つまり自ら周りの出来事にとやかく関わるのは何一つ良いことがない、ということになる。ですので、周りに何が起ころうとも、自ら巌(岩)のようになって、知らんぷりを決め込んでしまったほうが得ということになる。

自分を変えるのなんて簡単だ、ただ心穏やかに日々を過ごせば良いのだ。

それ即ち、沈黙は金、ということだ。

そもそも周り、とは

自分の周り、というものは自分の心が鏡写しにされた世界のことです。

目に見えている周りの世界に、否定的に憤っている状態。それはつまり、私たちが勝手に自分とは無関係な事柄に土足で踏み込んで、ああでもないこうでもないと一人で意気込んでいるに過ぎない。

目に見えないウィルスについて、国の対応がお粗末である!
○○国と○○国の紛争
○○国からミサイルが発射されたようです
もっとこうすればいいのに、もっと良い方法があるはずなのに!

こうして自分と直接無関係なことに対してさえも、私たちの日々の意識は外へ外へと向けられているのです。(仮に私たちに間接的に関係している事柄だとしても、その事柄はより直接的な人々によって対応されているという意味においては、私たちには無関係という意味である)

そう、すべては私たちの心が作り出した状態なのです。
つまり私たちは、豊かで、ある意味暇なのだろうということです。

周りを労うのは自分を労うこと

自分の周りが己の心の投影であることは先に述べました。
ですから周りの環境や他人の良いところに注目し、その点を褒めたり労ってあげてほしいのです。
それは自分の心を労うことと同義だから。

周りを観察するためにも、日頃は無駄口を謹み周りを否定するかわりに、周りを観察することに努めてみてください。

周りに肯定的になればなるほどに、やがて自らの心に変化が訪れ、目の前の現実も変わっていくことになります。

旦那様へ労いの言葉をかけていますか?
奥様へ日々の感謝を伝えていますか?
ご両親やお子様たちへは?
会社の同僚や友人たちには?
学校の先生や学友たちには?

誰もが必ず素晴らしい良い面を持っているものです。
その点を繰り返し指摘し、時に肯定的に言動で示してあげてください。

こうしたポジティブな波動はやがて世界へと伝わり、巡り巡って私たちの人生に安寧の日々をもたらすのです。

そして、この行為にはお金は必要ありません。
そして、この行為にはわずかの時間と手間しかかかりません。
その上、この先には確定した豊さが待っているのですから、このことより素晴らしいことはありません。

是非とも今日を限りに外向きの否定的な意識を手放して、肯定的な言動を日々の中に取り入れてみてほしいと願う。

あとがき

かくいう私も、noteに記事を掲載するにあたり、身に余るものを日々いただいております。本日の内容を読んでくださった方の日々を生きるヒントになれば幸いです。

いつもたくさん見ていただけるだけでなく、スキやサポートなどのリアクションに日々の活力をいただいております。本当にありがとうございます。
また惹かれたら見てくださると嬉しいです。
─なすの

タイトルイラスト

大橋ちよさんよりお借りしています。
ありがとうございます。

プロフィール

私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。


いつも本当にありがとう。 これからも書くね。