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浮世離れ、半端ない私

世間はただ思い違っている。

例えば私がどんなに素晴らしい内容の記事を書いたとて、

「無名な人間の言うことだから」

そう思われて終わり、でもこれは違いますよね。

世間は必ず過去の実績や今現在の地位から値踏みするよう人を判断します。

過ぎ去った過去は無価値なのに、どういうわけか必ず判断の材料として利用される。実におかしな風潮、でもそうである以上致し方ありません。

現に私は今幸せであり、十分に豊かだと感じているのです。

そんな私が間違っているのでしょうか?

年収が1000万無いと貧乏、だから私はみすぼらしい。
上場企業や偉いとされる地位にない、だから私は凡人。
目に見える実績がない、だから私は物書きとして三流。

このように世間はいつも勘違いして、自分とは無関係の価値観を押し付けてくる。逆に言えば自分にとって世間は無価値なものだということ。

であればこそ、世間に対してあれやこれや思い巡らせるのはもうやめよう。

少し寂しいとお感じになりますか?

誰だってそうです、ずっと世間の中で生きてきたのですから、その結果ただ単に自分と世間の認識が違っていだけであると気付いた、というだけ。

ちまた はとんだ勘違い君。
自分の金看板は絶対に下げるな、自分の価値は減らない、むしろ無限。
私は浮世離れしているのだ、半端ないから。
根気比べ、先に降参するのは周りの人たちだ。

鏡の中のあなたへ

自分の中にあるものが第三者を介して自分に跳ね返ってくる。

例えば潜在的に自分に自信がない場合、容姿、能力、ありとあらゆる形で、それは目に見えたり見えなかったり。

「あなたってブス」「お前はバカ」「チビ、デブ」

こうした嫌悪するような言葉たちも自分の中から放たれたモノ。
周りは律義にそれを口にして跳ね返してくれているだけ。

本当に周りとはただそれだけの鏡のような存在。
それじゃあ、まるで自分だけが自我を持つ存在みたい。

ある意味ではそうでしょう、なんだかちょっぴり寂しくもありますが、そんな仕組みである以上これはもう変えられないことなのです。

世界に自分独りぼっちなのではなく、そもそも自分が世界という唯一の存在。人間はどこまでいっても結局は孤独。

基本的に人は自分に対して、好む好まざるにかかわらず過大な評価を押し付けてくる。それはつまり自身の中の願望が他人を介して表面化しているにすぎないということ。

人は信じたいものだけを見て、それのみを信じようとする。
それなのに自身を信頼できずに、外部にそれを求め続ける。

なぜ今日も神様に祈るのですか?

ある日突然、お隣の世界から別の自分がやってきて、自分を助けてくれると知っているからでは?

つまり自分が祈っている神様は別の世界に同時に存在している自分自身。

あるいはこの世界そのものが自分だから。

でも本当なんだよ、ガッカリした?

もっともっと物凄い存在が、これ以上にないタイミングで、ド派手な演出で来てくれるとでも?

神々しい後光なんかが射しちゃってさ。

本当に自分が神様なんだからもう諦めな?

その手始めに目の前の鏡を叩き割ろう!

その手から流れる血液や痛みこそ真実。

その痛みと共に前に進もう、自分を信じて。

だからもう神様に祈らなくていいんだよ。

どうせあなたには誰も勝てない、最強のあなたと常に一緒だから。

本稿はこの曲を聞きながら書きました vol.007


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