マウントをとらせてあげよう
そもそもこの世界では、マウントをとる側、マウントされる側といったように一定の割合が決まっているのだから、誰かが悪いわけではなく、そういう世界の仕組みであるということ。
お互いがその瞬間に役割を演じているにすぎない。それなのにどういうわけか、勝ち組、負け組というように、勝手にクラス分けを行った挙句、悲観的に生きる人たち。
家族や学校の呪縛から逃れ社会に脱出したと思ったのもつかの間、
「ようやく自由だ!」と、くだらない世界に従属せず生きようとすると、会社での同調圧力、村社会。
会社の同僚から向けられる態度、上手に仕事をすると妬み陰口。
失敗したらあからさまに笑う。
でもそれらすべてが予定調和だとしたら?
風土、風習、慣例、慣習。
あらかじめ決められたタイミングで決まりごとが起こる。
どうしてその出来事が起こるのでしょう?
人間関係のすべては相対的であり、因果によって起こる。つまりは、相手はそのタイミングであなたを馬鹿にするとあらかじめ決まっているのに、あなたが想定通りに失敗しないと怒るというだけのこと。
ですから、自分が賢い人間を演じるために、他の人の演技の邪魔をしてはいけないのです。だから誠に不本意でしょうが相手のご要望通りにドジな姿を見せ、相手を満足させてあげましょう。
そうして求めに応じ、得られた結果に満足した相手は、想定通りの姿を演じられたことにより満足し大人しくなります。真の要領の良さとは、周りをこのように生かすことを言うのです。
周りに嘘の自分を見せる行為に罪悪感を持つ必要はありません。あらかじめ定められた相手が望む自分を演じるのは相手のためだからです。しかし自分には嘘は通じない、だから自分に嘘はつかなくていい。
誠の思いやりとは、周りの意思を汲み取り、心を配ることなのです。自分を演じることだけに一生懸命になるとこの点に気づけないまま、いたずらに年月を重ねることになる。その結果、やがて年老いて老害となり無明長夜のまま人生を終えるのです。
このカラクリに気付いたなら、もう周りに何とも思わないはず。とはいえ人間である以上、気持ちは沈むでしょう。その際はこう思いましょう。
日本国憲法第19条【思想及び良心の自由】
心の中は自由である。
どんな思想や世界観を持っていたとしても、心の中で考えている限りは自由である。
ここでひとつ小話など。
つい先日のこと、気になる症状があったため久しぶりに病院へ診察にいきました。その際、病院の先生にかなりの剣幕で上からの物言いをされ、正直気に障りました。が、即座に気を取り直し徹頭徹尾、低姿勢に努めた結果、はじめは不機嫌そうであった先生も憑き物が取れたように気分よさげに診察が終わったのでした。
病院というストレスの多い環境、いかに病院の先生とはいえそこは人間。来るのは病人しか来ないわけですから、イライラするなというのも無理な話。その点を汲み取ってあげることでお互いに気持ちよくなれる。お互いあってのおかげ様、それでいいじゃありませんか。
少し寂しいかもしれませんが、周りの人たちというのは、所詮ただそれだけの存在。勿論、身近な人間も含まれます。
いかがでしょう?
この仕組みに気づいてなお、まだ周りに気を使いますか?
周りのために生きることを否定はしません、でも…もうよしましょう、とにかく大切なのは自分。自分が自分らしく生きたとき、自分の周りの人たちにも変化が訪れる仕組みなのです。
もちろん今日明日いきなり思いがけない日常がやってくるわけではありません。それでもかなり近い未来、自分が予想していたよりもずっと驚く現実がそこにあることに気付けるのです。
優しい人ほど周りを意識しすぎるあまり、自分本来の人生を大きく迂回してしまっている。そんなあなたが、自分本来を思い出し、なりたい自分として、自分らしい人生を歩めますように。
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