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”思いつき”定義集Ⅱ㊲「る・れ」

◆酔っぱらっていたので修正版としました。すみません。

【流転】人間万事塞翁が馬――これぞ最適な故事(別項で記したかも)。
◆注:故事に限らず多くの俚諺があるだろうから無知を晒すのは承知の助。それでも人生の行き詰まりには示唆となる。流転する人生ならばこそ老子の相対主義的な考え方(「自分は自分じゃ!」)も参考になるかも(秩序に屈服を強いる儒教に親しみを覚えないという立場から)。

【歴史】むろん事実の集積ではない。大半は“恣意的に”選択された「事実」として記述されるテクスト。誤解を恐れずに言えば教科書に採用された記述。教科書が面白くない――あまり響かないのはそのせいか。
 歴史は過去の記憶と記録であるがゆえに個々人にとって、また地域や国々によって異なる。同じ「事実」であっても、まだら模様であることは絶対に回避できない。
 また歴史とは現代史――あるいは現況の反映。権力者は歴史の捏造・隠蔽に腐心する。検閲・検定あっての教科書。多分に多いのは誤魔化し。歴史はつねに「オーウェル的世界」への危険に晒されている。つまりあらゆる異論を排除する絶対・全体主義の世界。その意味で歴史論争は健全とさえ言えるかも。ただ、論争のなかにも主張の危うさが孕まれている。「歴史修正主義」のおぞましさも考慮する必要がある(例えばピエール・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』人文書院、1995年)。
◆注:「事実とは何か」――すでに論じられてきた決着のない主題を蒸し返す意味はこの駄文には不要。
◆推し文献:歴史に関する文献は数知れない。世界史・地域史・国史を含め無限と言っていい。個人的な好みと読み易さからいくつか。
 E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書、1962年)は今も読む価値がある。市井三郎『歴史の進歩とは何か』(岩波新書、1971年)の「結論」にも共感する。
 現代史のなかでは木畑洋一『20世紀の歴史』(岩波新書、2014年)、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書、2016年)、中川成美『戦争を読む――70冊の小説案内』(岩波新書、2017年)などなど。
 小説として、古山高麗雄『二十三の戦争短編』(文春文庫、2004年)、赤染晶子『乙女の密告』(新潮社、2010年)、そしてオーウェル『一九八四』(ハヤカワepi文庫から新訳が出ているらしい)。オーウェルの評論集『あなたと原爆』(光文社古典新訳、2019年)も。

【レッテル】貼るもの。概ね他者に対する偏見。偏見のない人はいない。他者に対して貼るのは当然(当為ではない)。重要なのは貼り方。人に対して誤解のない理解などあり得ない。それを承知で貼り方に留意して接するのが礼であり品格である(という気がする)。
◆推し文献;李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房、2020年)――いわゆるセクシャル・マイノリティに材を取った連作短編集だが「偏見の日常性」を照らしてくれている。

【憐憫(れんびん)】あわれみ。基本的には他者への感情の発露だが、二つの側面がある。いずれもネガティヴな響きを伴う。
 一つは自己憐憫という言い方があるように自身に向けること。自分を憐れむこと自体ネガティヴ(ポーズを取る場合もあるが)。二つ目に他人を見る眼。そこには否応なく意識化された上下関係が発露する。憐れみを施す目線と憐れみを受ける側の心情にはギャップがある。逆説的だが、両者の間にギャップがなく認識上の一致があるとすれば、それこそ最悪! つまり威張るヤツとそれに屈するヤツの露骨な力関係を双方が認めていることになるから。
 大事なのは、憐れみの視線に対して憐れみを抱くこと。他者の視線で自己の嗜みを台無しにしないこと。月並みに繰り返せば「わたしはわたし」を社会のなかで大事にする心意気。


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