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なつかしさの自由研究

遠出して、のどかな田園風景に出会うと、「なつかしさ」を感じる。水面が光る田んぼ、うっそうと茂る森、古ぼけた神社の鳥居、うるさ過ぎるセミの声、縁側から漂う蚊取り線香のにおい。

自分は大都市の出身で、ずっと都市部で暮らしてきた。両親の田舎ですら地方中核都市の住宅街だ。田園風景なんかには、縁がないのだ。虫取り網を持ってタンクトップで朝から晩まで駆け回ったことも、川で冷やしたスイカにかぶりついたことなんてないのだ。

では、この「なつかしさ」はどこからきたのか。未来の人々は、今、私が日常としている光景に「なつかしさ」を覚えるようになるのか。それとも変わらず、田園風景を「なつかしい」ものと感じるのか。そんな光景が世界のどこにも無くなったとしても?

現実に体験したこともないのに感じる「なつかしさ」、きっとどこかで見た描写や映像によって作り出されたものなのだろう。この「なつかしさ」と、「なつかしさ」を感じさせない街中のコンクリートの母校を久しぶりに訪れたり、汚れたTシャツの子どもではないすっかり歳をとった身綺麗な旧友に出会ったり、そんな時に感じる懐かしい気持ちとの間にはどんな違いがあるというのだろう。

この、自分の体験ではないけれど「なつかしい」のことを歴史的ノスタルジア、と言うらしい。歴史的ノスタルジアは、過去についての知識をもとに感じるもの。感じる対象には、時代の連続性を感じられるくらいに比較的近い過去であることがなつかしさを感じるのに、重要だそうな。
参考文献:「なつかしさの心理学」

マーケティングの世界などで何に対して、どんな時に、感じるのか、そういったことが研究されているらしい。私たちの世界の中にはこうしたマーケティングが根深く突き刺さっていて、抗おうにも感動してしまう昔を懐かしむ広告なんかが溢れている。湘南には何の思い出もないけれど、サザンオールスターズがいい歌に聞こえる。なんだか、古き良き時代ばかり懐かしむ老人になったような気がして、最近は聴くのに抵抗が出てきた。

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日本科学未来館HPより、常設展示「計算機と自然、計算機の自然」シンボル展示「計算機と自然」

少し未来へと目を移すと、これから先、私たちの周りはどんどん変わっていく、もう都心では電線は減ってきているし、路面を走る電車も少ない。映画の独特の絵の看板は無くなり、3Dプロジェクションの広告が動いている。

どんどん変わってきたその先にある、自然と計算機が融合した新しい自然を「なつかしい」と思うようになるのか、変わらずこれまでの自然を「なつかしい」と感じるように計算機に刷り込まれるのか。「なつかしい」故郷はただのデジタルな映像に過ぎないのか。この作品を見ながら、そんな風にとりとめもなく故郷のことを考えていた。

懐かしさと時間的距離、未来の時間的距離は何を生むのだろう。懐かしさの対立概念は何か、そこに時間と思い出しやすさが関係しそうな気がしていて。未来を思い描く、解像度を高めることは、何をさせようとしているのか。

#なつかしさ #ふるさと #心理学

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