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企業と大学と、われわれ。

企業の中で、いかに大学の研究者の知恵を活かすことができるだろうか、ということを考えている。知恵とは、問題解決のための単純な専門性でなく、専門知を探索する営みのようなもの、問題の背景にあるそもそもを問うことだったりするのではないか、と思いながらである。

日立京大ラボの取り組みに興味を持って、読んでみた

1企業がこれだけの問題意識をもって、一見直接企業の事業とは関係なさそうなことに投資できるのが凄い。こういうそもそも、我々は何をするのか、を考えることにこそ、エネルギーを注ぐべきだ。超長期的な視野では、このような組織を自社に作れないか、と思案する。

本そのものは、京大の研究者の深い知見が、どんな分野にせよ、人間社会に対して示唆を与えるものに見えてきて、大変興味深い。一方で、これらを落とし込む企業側の思索が十分かというと、そうではない気がする。自分と同じ立場の人だ、と勝手に共感を持っているからこそ、厳しく言わしていただく。

「なんとなくいいこと」に落ち着いてしまっているように感じられる。ハッキリ言うと、大学の役割をワクワク感の提供、というようなことに落とし込んでしまうのは、良くないと思う。ワクワクできる知識人を優れたものと捉えるようなニュアンスに見える。ワクワクしないことと向き合うことも大学の役割であるし、そうしたことを考えようとする人材こそ、支援する組織があってほしい。

研究者の知見が最先端であるからこそ、大きな社会変革に向かう話であるはずだ、必然、摩擦も大きかろうと想像する。今、上手くいっている日立さんのような大企業ならなおさら、自己否定のような内容にも議論は至るはずだ。現在は、利益が出ている良しとされていることも、未来の社会を想像した時に不要、あるいは有害となるから止めよう。とそこまで言ってもらいたい。

また、本書のテーマが社会課題の解決に向けて、大学や企業の役割は?という問いである。そもそも、考えているような未来において、今の形の大学や企業が必要ですか?そう問いたい。大学ありき、企業ありき、ではなく、やはり主語は一人ひとりの人間ではないか。われわれが「快適さを実現しようと生き生きと暮らす」ためには、どんな組織が必要なのか、それは今の大学や企業とどう違って、何が同じなのか、から考えていきたい。

そこまでは、企業のラボでは出来ないだろうか。しかし、そうでなければ、現実に、従来型の企業は不要、となった時に行き詰ってしまうのではないだろうか。

そうは言っても、結論を否定するわけじゃない。知の集積となる大学のような場所は必要だと考える。人が集まり、大きな事業をなすための企業的な組織も必要だと考える。それは、われわれがお互いに、生き生きと暮らすために、必要な仕組みであり、それらの仕組みを含んだ社会全体を自分自身と捉えられるようにしていくことが、これからの我々のより自由な生き方であろうと思う。


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