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コンビニケーキに仏壇用ロウソク

 新卒で入社した会社の、4月の総会の日。
 社員全員参加の飲み会で、私は目上の人と乾杯するときはグラスを下から、お酒を注ぐときはラベルを天井に向けて、と先輩に教わった。
 あの日の「乾杯」、低い位置からグラスを当てて、低い位置からグラスを当てて、次のテーブル、次のテーブル、次のテーブルを回って、低い位置から乾杯、乾杯、乾杯をして、社員の人たちの顔も名前も覚える間もない、よろしくお願いします、乾杯、乾杯、と、口をつける頃にはすっかり泡も消えて温くなったビールはまずかった。社長に「君は面接で素っ頓狂なことを言ってた子だねえ」と言われながらビクビクと初めてのお酌をして、はあ、とか、まあ、とかゆとり丸出しの返事をして、話も長くなりそうで「10年後にはどうなりたい」等言われてパニックになり、とりあえずとっとと自分の席に戻ろうとしたとき。気づくと座敷の奥の席に追いやられてしまっていた私はとっさに、この場から逃げるため隣にいた社長の膝の上を跨いでしまった。
 跨いだ瞬間、「あ」と思った。
 向かいにいた専務や部長も「あ」と言った。
 あの瞬間に、私は何というか、社会に飛び込んでしまったんだと思った。学生時代のサークルの先輩でもない、お父さんでもお母さんでも先生でもない、社会の、大人たちが渦巻いてる場所に来てしまったんだと。
 その会社で3年ほど働いて、辞めた。
 次の夢に向かって動きたいなどと大層なことを言って、夢見る若者が大好きな社長や会社の人たちに散々応援してもらって、辞めた。けど正直いうと、その会社での仕事に飽きてしまったのが1番だった。もうここにはいられないなと察して、大して次のことを決めずに辞めた。

 「会社を辞めた」と言うと、大学の映画サークルの同期だった関根と飲むことになった。関根とは就職してから「飲もう飲もう」言ってたけど結局お互い仕事が忙しくて全然飲めていなくて、私が退職してやっと予定が合った。
 「俺、禿げてきてないよね?」と頭を気にしている関根と、私はこのとき乾杯をしたのか覚えてない。終電まで仕事をしてタイムカードを切ったら0時を跨いでしまって、翌日経理部のおばちゃんに「こういうややこしいことしないで」と怒られて悲しくなったと関根は、ヘラヘラ枝豆をビールで流し込んでいて、私も「会社辞めちまえ辞めちまえ」とヘラヘラ笑っていた。やっぱり、何度か乾杯したような気もする。学生時代、私の撮る映画に関根に出演してもらったことがある。暑い千葉の田舎で撮影したその時の映画のDVDは、もうどこへ行ってしまったかわからないけど、私が初めて撮った映画に出演する関根は、ずっと口をへの字に曲げていた。後々編集している時にそれにやっと気づいて、ああ、関根、出たくなかったんだな、と思ったのを覚えてる。関根が口をへの字に曲げる変な顔をするたび、私はあの映画のことを思い出すのだ。その日、限りなく私の家に近い駅で飲んでしまったので、関根の終電が早く、私たちは確か11時とかで解散した。「まあ、また飲もうや」と言い合って、結局そんなに連絡は取り合わないことはわかりきっているのだけど、お互いが生き延びることを心のどこかで祈りながら別れた。

 私は映画学校に入学して、映画をちゃんと勉強しようと決めた。最初は夢なんて大それたことではなかったけど、入ってみて、プロデユーサーや監督を名乗るおじさんたちに脚本を褒められる機会があって、なになに〜まじですか女坂元裕二になれちゃう感じですか?と案の定調子に乗ることになる。けれどもそれを映画にするのはまた別の話で、脚本の時どんだけ「これは超面白い私天才」と思っていても映像にすると大して面白くなかったり自分の頭の中で思い描いたより全然しょぼいという壁に散々ぶち当たり、脚本の段階で褒めてくれたプロデユーサーや監督を名乗るおじさんたちも完成した映像を見ると「思ったより面白くなんなかったね〜」みたいな感じで、ああこれは私、調子に乗ったな、と思い知る。
 クラスのみんなと飲んだとき、3人しかいない女子のうちの1人であるAさんに、「あなたが今日講評の時に言ったことが気に食わなかった」と言われたことがある。Aさんには私が課題で撮った5分のショートムービーに同僚に恋する女役で出てもらっていた。何が気に食わなかったのかと聞くと、「あなたは私の役柄を説明する時に、ちょっとばかな女、と言った。あとは、男性に恋をする役を与えられて不愉快だった」と彼女は答えた。私はその時なんて返したのかこれまたあまりちゃんとは覚えていないけどそれなりに言い合いになり、彼女は泣きながら私におしぼりを投げつけて帰っていった。場を取り持つように「まあまあとりあえずもう一回乾杯」と誰かが声を上げてくれて、私はグラスを高く持ち上げた。やけくそみたいに向かいの人のグラスにぶつけた。
 後日、Aさんに泣きながら「好きだ」と告白された。電話で、「あなたは変人だから、あなたの周りからはどんどん人がいなくなると思う。私みたいな人じゃないとあなたのことを好きになれないと思う」的なことを言われて、私はもう二度と連絡しないでくれと電話を切った。Aさんがレズビアンであることは薄々気づいていたのでそこに驚いたわけではなく、単純に、彼女の言葉がまるっとそのままショックだった。  
 誰にも好きになってもらえないかもしれないって、人生で初めて、自分の足元がぐらつくような気がした。

 映画学校も卒業し、私は美術小道具の会社でテレビ番組の背景に関わる仕事を細々としながら、休みの日に脚本を書いたり、同期の撮影を手伝ったり、手伝ってもらったりしながら時間は流れた。
 コロナの影響で仕事もなくなってからは4ヶ月近く自宅待機の日々を送っていて、こんな状況になって連絡取ろうと思う友達って少ないものだなと思いひたすらNetflixでストレンジャーシングスを観ていた頃。「そろそろ飲んでみますか」と映画の仲間たちのLINEにポンと連絡がきた。「そろそろ、そうですね」「飲みたいですね」とみんなお互いの様子を伺うような感じで、すんなり合った予定は私の誕生日の前日だった。何だか狙ったみたいになるけど、自分で言わなければ大丈夫、と思った。私は人に誕生日を祝われると嬉しい気持ちよりも申し訳ない気持ちが大きくなってしまうたちなので、「私あと4時間で24なんです〜」等飲み会の席で言える人を心のどこかであの人はなんて自分の価値を高く見積もっているのだろうと僻んだりしていた、結構いい歳になってきたというのにいつまでも。けれども久しぶりに会った仲間たちと乾杯したら、とても嬉しくなって、本当に楽しくなって、飲み会では大抵手持ち無沙汰になっておしぼりの袋を結んだりテーブルの上の水滴をずっと拭いたりしている私が、そんなことをせず、本当に楽しくなって、ついに「私明日誕生日なんだ」と例の自分の価値を高く見積もった台詞を言ってしまった。仲間の1人がわざわざコンビニで買ってきてくれたケーキに、「仏壇用しかなかった」とロウソクを指してくれた。0時を過ぎたタイミングでバースデーソングを歌われ、「乾杯」をした時、私は誕生日の当日を家族以外の人にこんな風に祝ってもらうのは初めてかもしれないと気づいた。

 「10年後はどうなりたい」と社長に言われてから5年ほどが経ち、あの時思い描けなかった10年後が今は5年後になったわけだけど、いまだに私は何も思い描いてはいない。何かにならなければならないと焦っていた頃の私が完全に消え失せたわけではないけど、今同じ質問をされても私は焦ったりしない気がする。  
 堂々と、わからないと答えられる。嫌でも時間は流れるのだ。どんなに悔しい日でも、普通の日でも、楽しくて時間が止まればいいのにと思う日でも同じだけ時間は流れる。そのことを諦められるまで、これまた、まだ時間がかかりそう、もう少し。小銭くらいしかない希望も夢も私は大事にポケットにしまい、ちょっと泣きそうになった時の「乾杯」ばかりを思い出す。



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