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ざんねんなノンフィクション

丹田春子、春生まれだから春子。凡人。手取り18万。夢も趣味も特になし。もうすぐ30回目の誕生日が来る。
バンドマンの江沼と付き合っており同棲4年目である。あいつは全然生活費を入れないけど、言いたいことは言わずに飲み込む派。たとえば1センチだけ中身の残ったペットボトルを部屋のあちらこちらに置かれることとか、トイレットペーパーをのこり1センチだけ残されることとか、お前は前世1センチと何かあったのか!1センチ残さなきゃいけない職人だったのか!と遠回しに文句を言ったら遠回しすぎて伝わらなかった。

死にたいと思ったことは一度もないけど、いったん別の人生にいきたい。この人生なんかやだ。とある日気づいてしまった。そう、わたしの人生、なんかやだ。
久しぶりに会った短大の友だち、ひとりは胡散臭いオンラインサロンに入って人生イキイキしているそうだし、ひとりはアプリで出会った公務員と来月結婚するらしい。わたしは、本当になんとなくだけど、ああ人間、えいえんに満たされないのだな、と改めて察するのだ。

江沼が治験のバイトで1週間家をあけるというので、生まれて初めて浮気を試みた。
友達が使ってるのと同じアプリを使って、江沼じゃない人間に出会ってみることにした。
ひらがなで、「たくや」と登録されているその男の子は、わたしより5個年下の会社員だった。
わたしは「はるこ」という名前で登録していたので、たくやくんはわたしのことをはるこさん、と呼んだ。
上野の喫茶店で一緒にお茶をした。1杯800円するコーヒーを飲んだ。たくやくんはよく喋る男の子で、好きな漫画や好きなバンドや好きなお笑い芸人や飼っている猫の話をたくさんしてくれた。でも仕事の話は全然しなくて、あるタイミングで、アプリに書いていた「IT系営業」は大嘘で彼が働いていないことを知った。
わたしは、鼻で笑ってしまった。たくやくんに対してではなく、無意識に労働と遠い男ばかり選んでしまう自分自身にだ。
まだ外も明るい15時過ぎ、たくやくんは、「家に来ませんか」とわたしに言った。わたしは、猫アレルギーなのでむりです、と断った。
結局そのあと一緒にカラオケに行って、居酒屋に行って、散々酔っ払ったたくやくんは「死ぬ前に童貞を卒業したかった」とあまりに正直すぎる嘆きをわたしにぶつけてきた。わたしはめっちゃ笑った。この間25才の誕生日で、母親がケーキを買ってきたらしい。ハッピーバースデーたくやくん、と書かれたチョコレートを見たとき、死のうと思ったらしい。でも最後の最後に、セックスだけしてみたかったらしい。そういうお店に行けばよかったのにとわたしが言うと、そういうことじゃなくてえ!とたくやくんは地団駄を踏んだ。大人の地団駄、初めて見た。ばかめ残念だったな、と笑い転げるわたしに、たくやくんはとてもくやしそうに、でも一緒になって笑っていた。たくやくん、改め、死ぬ前にセックスしてみたかった実家暮らしニートくんとわたしは、終電でサヨナラした。
次きみがおごってくれるなら、1回くらいいいけどね。

数日後江沼が帰ってくると、治験のせいで身体のいたるところにブツブツができてた。
そして1週間かけて作ったというわたしをとにかく愛してる的な歌を披露された。なかなかにしょっぱい曲だったので、いたたまれなくなって、わたしは正直に、死ぬ前にセックスしたい実家暮らしニートくんと浮気をしかけたことを話した。
江沼はじゃかじゃかギターを鳴らしたあと、え?とわたしに言った。いや、絶対聞こえてただろう。
ところでなぜ江沼はいつまで経ってもギターを持ちたがるの。遺伝子にそうインプットされてるの。
「え?やった?って言った?」
「やってない」
「何でその話俺にした?」
「なんとなく」
「…」
「江沼には嘘つきたくないなあと」
「いやぁ、うんんん。嘘ついてほしくはないけど、別に聞きたくもなかったというか」
その通りだ。
「わたしさ」
「うん」
「江沼が、わたしのことかっこいいって言ってくれたことあったじゃん」
「あったっけ」
「それがうれしかったんだ。いまだにうれしいからさ、今ここにいるみたいなとこあるよね」
わたしが意味もなく江沼の肩をパンと叩くと、江沼は怪訝な顔をした。全然納得いかない表情で、自分の首の後ろをさすっている。
「え?春子ちゃんが何を言いたいのかボクはさっぱり」
「治験のバイトやめろ」
「…」
「あんたが死んだら困る」
「…」
「…」
「死なないよ、ブツブツはできますけど」
「うん」
「えぇ?」
「うっさい。早めにしね」
「どっち?」
江沼の歌がもっと色んな人に聴いてもらえるようになったらいいし、江沼がもっと早くちゃんと諦められるくらい歌に飽き飽きしたらいい。
凡人のわたしの願いはそんなものだ。

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