子宮に沈める

「ただ見る」ことの怖さ

緒方貴臣監督「子宮に沈める」を見ました。

最近、こういう重い映画ばかり見ているような気がします。もともとこの種の、重くて、気が滅入ってしまう映画を見て、様々な事象について考えに耽ることが好きな性分なのだから仕方がないですね。

さて、本作は「シングルマザーの貧困、児童虐待、ネグレクト」がテーマです。実際にあった事件が元になっていますので、この種の問題に関心のある人以外は見ない方がいいです、トラウマになります。

この映画は一言で言うと

「ある家庭と子供2人が悲劇に陥っていくさまを延々と隠し撮りしたみたいな」

映画です。はっきり起承転結があったり、ドラマチックになったりなど、エンタメとしての映画らしさは皆無です。0です。

ですから「この映画は映画になっていないし、伝えるべきメッセージが伝わらないからこの映画を評価しない」というレビューも見受けられます。

私はそうは思いません。この映画は映画という枠にそもそも何もこだわっていない。こだわっていないから当然メッセージなどないのです。

「見てのとおり」の映画なのです。

むしろ、このような類の映画で、きちんとわかりやすく説明しながらメッセージを発信しないと、受け手がメッセージを受け取れないのであれば、それは受け手側にも多少は問題があると言わざるを得ないのではないでしょうか。

少し脱線しますが、いわゆるアクションやキャラクター物などのエンタメ系ではない、社会派だったりアート系だったり、文芸的な映画、まぁ、簡単に言ってしまえば「ちょっとだけ考えることが必要な映画」を毛嫌いする人が私の周りには何人もいます。

それらの知り合いに、なぜそういう映画を見ないのか、と聞くと

「意味がわからないから見ても無駄」

「考えるのがめんどくさい」

「そういうのは頭のいい人が見ればいい」

と答えます。冗談でなく本気のトーンで。そう答える人の中には、私より学歴が遥かに高かったり、年長者であったりする人も含まれています。

もちろん単純な好みの問題もあるので、一概には言えませんが、やっぱりどこかでリテラシーの問題もあるのかな、とは思ってしまいます。細かい分析はそれこそ頭のいい映画評論家や社会学者の方たちにお任せしますが。

もしそういう「メディア・リテラシー」ならぬ、「シネマ・リテラシー」の低下が、日本人の映画離れや映画館離れの一要因になっているのだとすれば、それは、説明過多で、演出過剰で、やたらとスピーディに展開してセリフも多い、昨今の映画・ドラマが生んだ弊害の一つである、と感じるのは早計でしょうか。

さて、本筋に戻ります。

この映画、まずもって特筆すべきは、その撮り方です。徹底したローアングルです。顔も含めた全身が映るのは子供だけ、というくらい徹底してます。

大人は上半身どころか、顔すらまともに映りません。まるで押し入れかどこかから隠し撮りしたかのような、覗き見しているような感覚に捕らわれます。

その感覚はさらに、子供の視点より上の世界が画面に現れず、親の顔でさえ見切れている狭い狭い画面構成に拍車をかけ、途轍もない閉塞感、圧迫感を生み出します。

この閉塞感は、2015年のレニー・アブラハムソン監督「ルーム」を彷彿とさせます。

また、ローアングルの多用は、どうしても小津映画を思い出さずにはいられません。

低い視点=ローアングルが、映画にとってどういう効果をもたらすのか、について再考せざるを得ないのです。

小津は日本家屋の構造上、つまり天井が低く、奥行きのある和の家の造りを見せるためローアングルに固執しましたが、それが結果、画面上の人物と観客の視線が合い、両者が対峙するような緊張感を生み出しました。

この映画では、その緊張感が恐怖感にまで高まっています。何が起こるか全く予測がつかない恐怖。と同時に、助けてあげられない無力感に襲われる悪夢を見ているような恐怖。

私はこの映画を見始めてすぐ、あ、この映画の監督は是枝イズムの信奉者なのかな、と思いましたが、表現の仕方は是枝イズムより遥かに徹底しています。

そう思ったのはもちろん、同じくネグレクトを題材にした是枝監督の代表作「誰も知らない」を想起させたからですが、この映画では、是枝監督のようなタッチとは似ているようで何かが違う、その違う何かを徹底しすぎて、見ているこちら側が後ろめたくなるほどです。

一家庭の悲劇をただただ隠し撮りされたカメラから遠隔地で覗き見しているような感覚。

それはそのまま、我々の現代の社会生活を、神の視点で、どこかの別世界のだれかに覗き見されているような感覚でもあります。

現代社会は他人事の集積体、無関心の集合体、でも覗き見させてくれるなら見てみたいな(利害関係が生じないことが大前提だけどね)、そんな我々なのです。

したがって、この映画は問題提起しかしていません、いや正確に言うなら、どこが問題なのかは「見てるあんたたちのほうで考えてくれ」、というような突き放しです。

ネグレクト、児童虐待、ひとり親の貧困問題を防ぐにはどうすればいいのか、それはこの映画の伝えたいこととはそもそも無縁なのであって、まずは、

「現実を直視することからの逃避をやめて、まずは”ただ、見てみることから始めませんか”」ということなのではないか、と私は受け取りました。

ーto be continued...-

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