見出し画像

鑑賞レビュー:東京国立博物館 本阿弥光悦の大宇宙 はじめようか天体観測?

2023年3月10日、東急田園都市線の江田駅の改札前にあるカフェで”しおくるみパン”をほおばってiPhoneをポチポチして検索していたらトーハクの「本阿弥光悦の大宇宙」の最終日だという事がわかった。コロナ対策が終わり、博物館の入館が予約制ではなくなって気軽に行けるようになったのと、テスト直後で気分もハイになっていたのでふらりと行ってみた。

知識がないというか、本阿弥光悦は美術史の資料でもネットで調べても「江戸時代の有名人」ということしかわからない。
プロフィールには数寄者とか、家職が刀剣の鑑定と紹介してあるのだが、なぜ蒔絵の硯箱や書を作っていたのだろう?数寄者とは「芸を極めるもの」とあるが、それはどういうことなのか?そして、刀剣の鑑定士とはどんな仕事なのだろう?また、なぜ、俵屋宗達とのコラボが多いのだろう?

作品をまとめてみれば関連する室町や江戸時代の文化についてなにかが分かるかもしれないと思いながら、電車に乗った。

展覧会は章立てで構成されており、光悦の様々な業績が整理してみられるようになっていた。


第一章 本阿弥家の家職と法華信仰―光悦芸術の源泉

第一章は法華信仰者としての光悦と刀剣鑑定士としての業績を見ることができる展示となっていた。

最初の展示室にはいるとまず、小さな木像の前に人が群れていた。本阿弥光悦の像だという。小さいし、待っていても見られないのでスルーして「印」などを見ながら豪華な蒔絵の拵えと短刀などの刀剣が陳列されているのをみた。

刀剣の中に「北野江(きたのごう)」を見つける。江義弘(14世紀の刀工)作の名物だ。茎(なかご)に金象嵌の文字で江磨上 光徳(本阿弥光徳の花押)の銘が入っている。「北野」という通り名は北野天満宮で磨上げられたからだという。由緒があり、本阿弥の銘が入っているという事はが、この刀剣の格を示すものなのだろう。


そのコーナーにはほかに、国宝・粟田口吉光(銘 後藤藤四郎)・観世正宗なども展示されていた。どちらも鎌倉時代の刀剣だが、鉄だけでできているのに700年を経たとは思えない清々しさだ。
これらの刀剣を現在見ることができるのも、どのように扱われてきたのかが推察される。鑑定士としての本阿弥光悦は、刀剣の格付けをするための権威であったのだろうと思う。

家系図などもあるが、見てもわからないのでスルー。
しかし、書状が並ぶ中で名物帖に「國廣」の名を見つける。
なるほど、「刀剣乱舞online」の格付けには、もしや本阿弥家が絡んでいるのでは!とハッとする( ゚Д゚)
(後日、本阿弥家の名物帖を確認してみたところ、見知った刀剣(男子の名)ばかりだった。本阿弥家の名物帖がDMM.comの参考資料だったとは…)

また、刀絵図という刀剣の等身大の図面を見る。刀剣には仔細なデータがある事は知っていたが、刀絵図の存在があって今は無くなってしまった刀剣の存在を知ることができるのだと知った。
このような重要な資料の存在から、刀剣というものが、平安から幕末まで日本の文化において重要な存在であったということ、そして、本阿弥家というのは、武家が席巻していた時代において美の権威であったという事がわかった。

第2章 謡本と光悦蒔絵―炸裂する言葉とかたち

第2章は、国宝 船橋蒔絵硯箱をはじめとした蒔絵が並んでいた。
どの作品も、意匠の抽象性が江戸時代のスタイルとは思えないほど独創性があり、力強く前衛的である。これらの作品を作ったころ、加賀藩主 前田(利家)との絆が強くなっていたというので、金や漆の作品が多いのは金沢とのゆかりがあるからかもしれないと思いながら見る。
「数寄者」であったゆえに、さまざまな技法を用いた作品に携わったと言われるが、唐突な思いつきで蒔絵や螺鈿作品に携わったわけでではなかったのだろう。

ちなみに、この金ぴかの蒔絵には源等(みなもとのひとし)という平安時代の貴族が詠んだ「東路のさのの(舟橋)かけてのみ思いわたるを知る人ぞなき」という和歌が画かれているのだが、意匠の中にもりこまれた「舟橋」の語は省略されており、その謎ときを楽しむ遊び心のある作品である。

そして、光悦の文字が鉛で描かれている和風でメタリックでカッコいいデザインのガジェットだ。

また、武士の間で流行した「謡本」に金泥で描画を施した装丁本の展示もある。
この時代においてはじめての文化だったという。美しく彩色された装丁本を持つことが、その時代のおしゃれの最先端だったのかもしれない。どの本も染められた紙に金銀泥を用いた雲母摺りによって謡曲の主題に沿った繊細な絵が描かれている。

家職のうちに書状をつくり、宗教者として経を書くという経験が書家としての成熟につながったのだろうし、作品の系列にはあまり矛盾はないように思えた。

第3章 光悦の筆線と字姿―二次元空間の妙技

第3章は、宗達とのコラボである「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を中心とした展示であった。宗達と光悦は「琳派」の創始者だという。
え?尾形光琳じゃないの?と、うっかりびっくりするが、光琳の妻は光悦の姉だという事で、親戚筋であるが、そもそもの琳派創始は本阿弥琳派と言われる2人の書、やまと絵をはじめとした総合的な美術流派であったという。宗達、光悦が起こした琳派を尾形光琳、乾山が受け継ぎ、それを酒井抱一、鈴木基一が受けついていったという事だ。

ゆえに、この、鶴下絵三十六歌仙和歌巻は「琳派の源流」ともいえる作品なのだろう。下絵には金銀で鶴の群れの動きを、その地の上に痩肥のある踊るように流麗な文字で公任の選んだ三十六歌仙の和歌の画かれているながいながい絵巻物なのだが、右からゆっくり見ていくと、鶴が飛び立ったり舞い降りたり、群れで動いていく動画のようだ。

展示室では13mがいっきに広げて展示されているが、そもそも絵巻は50センチほど開いて右から左にくるくる巻きながら見るものなので、たぶん、見るときは卓上に置いて動画を見るみたいに書を読み、絵を見ていたのだろう。

三十六歌仙を題材とした歌仙屏風というものは、古典美術の主題としてしばしばみられるが、鶴の動きに合わせて歌が読まれていく絵巻のアイディア自体が「琳派的デザイン」なのだろう。

蓮下絵百人一首断簡(映像より)


第4章 光悦茶碗―土の刀剣

最後の第4章は茶道具の展示であった。
室町、江戸の文化人で「茶の湯」を無視したものはいないだろう。
その、茶道具までも自分で制作するのが光悦流と言えるのかもしれない。
雨雲、村雲、時雨、など”不順な天候”の名を持つ茶碗が多いが、どれも素朴なフォルムであるが遊び心が見受けられ、マチエールには意趣が凝らされ、美意識を反映させている。

「刀剣」という、時代の工芸技術の粋を集めたものを見定め、評価を決定していく美意識と、宗教、表現技術、主従などさまざまなコネクションでつながる人々とのやりとりが「本阿弥光悦」というマルチプレイヤーを育て上げたのではないかと、とりあえず展覧会を見てまとめてみた。

室町、江戸の価値観や美意識の一端を垣間見られる展覧会であった。





















この記事が参加している募集

散歩日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?