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そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない

さて、曖昧なことでもつらつら書きますか。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

はい、今回そんなタイトルにしてみました。

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これは往々にして感じてることで、全ての内容に対して「絶対」は存在しないし、「過去そうだった」も今回は違うかもしれないし、「そのパターン」も勘違いもありうる、とそう常々思っています。


絶対的にそこに必要なのは「対話」であり、コミュニケーション不足が断絶を生む、と思っています。というのもそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない(いやいやもうややこしくなっちゃう)

まぁ生きてて経験則で感じるのは、

「人はちゃんと知らないのに決めつけている事が多い」

しかも、想像で決めつけてたりもする。そして一度自分が「そう」と思い込んだら違う意見には難色を示すのが「THE人間」というもの。

いやはや、本当に対話して、対話して、対話して、いや、傾聴して、傾聴して、傾聴して、いくと、「なーるほど、そうだったのね」という新しい事実が判明するのは何回も経験してる。

とにかく、対立、断絶、ネガティブ、などにはコミュニケーション不足は付き物。

コミュニケーションしきっていたらそこに残るのは「何が大切か?」という価値観や定義の話になり、最後はよりベターなほうで中立な決定をすれば大体は解決できるってもの。(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いやいやまたまたややこしくなるからそれ入れないで)

どんどん時代は、時間は、進んでいくから傾聴やコミュニケーションにも限りがあるというのは世の常だが、その中でも可能な限り対話はしたいものです。もし対話できずに前進しなければならないなら「これは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない」という想いを持ちながら、というのも一つかもしれません。

人間関係なんてそんな難しいものじゃない。

ちゃんと向き合って、心理的安全性が担保できてる中で、想いや考えを語り合えば必ずどんなことでも納得しあえるものかなと思ってます。(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけどね。って場合により都合の良い言葉だ)

では。

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