【小説】カホさんとポーターくん 🍃その1 軽トラ上のマキエッタ
「ケキョケキョケキョ…」
深い山合の里に、まだ上手くないウグイスの声。
静かな五月の早朝。
朝露が目を覚ます時間。
夜と朝の境目。
静けさが満ちている清涼な空間。
「ポコッポコッ」
小さく静寂をかき乱す音。
うるさいことはないけれど耳につくその連続音は、山間の小さな空地から聞こえる。そこにはさらに小さなクルマ。半世紀変わってなさそうなこの山間の風景に似つかわしい、ベージュの軽トラの荷台からだ。
ところどころに錆のあるその軽トラは、『マツダ ポーターキャブ』という年代物。マニアには垂涎だが興味のない人はお金をもらっても乗りたくない代物。
軽トラの荷台には、一人の女性が胡坐で座り込んでいる。色は白く、細身で長身。白いTシャツにジャージを羽織り、カーキ色のカーゴパンツ。そして、その女性の回りには、乱雑に畳んだ小型テント。そしてシュラフ。
胡座をかいた姿勢で、目の前の一点を見詰めている。なにやら真剣な表情。そこには小さなガソリンバーナーに載った金属の物体。
「ポコッポコッ」
先程の音はここから聞こえているらしい。
「ポコッ・・・シュー」
「今だ!」
若干大きな独り言と同時にバーナーの火を止める。金属の物体からは少しだけ液体がこぼれる。
「ふー・・・」
満足げなため息をつき、近くに転がっていた木製のカップを手に取る。カップには「カホ」と彫刻刀で中学生が彫ったような字。カップ自体手作りらしい。
金属の物体を持ち上げ、勢いよく傾けると、中から黒に近い液体が流れ出た。もうもうとする湯気。
何のことはない、ただのコーヒーだ。
「ふうー・・・」
エスプレッソコーヒーを数口飲んで身体が少し温まったところで、ひとつ息を吐く。五月とは言え、朝はまだ涼しい。特にここは海抜三百mの「まあまあ山のなか」だ。平地と比べれば涼しいというより寒い。そんななか、一杯の淹れ立てのコーヒー。
朝日でキラキラと輝く木の幹や葉を見つめ、清涼な空気の中で飲む。
至福のひと時。
早朝なので、まだ人の気配はない。そもそも山の中なので、昼間でも人に会うのは珍しい。
カホさんがこの空地で野宿(正確には軽トラの荷台の上のテント泊)するのは初めてではない。というか、お気に入りの場所なので、ふと気が向けば一人で野営している。人間には会わないが、山の生き物にはたまに会う。昨夜も、寝入りに鹿の親子が近くまで来たが、こちらの気配に気付き、静かに離れていった。動物の気配は常に身近に感じている。
「さ・て・と」
一人だと思うとかえって独り言が多くなる。自分のこれからの行動を自分に言い聞かせる。
「起こしますか」
そう言って荷台から飛び降りた。そのまま運転席のとびらを開ける。当たり前のように扉に鍵はかかってない。
「キィ」
油の切れたきしむ音を出しつつ、扉が開いた。
運転席に座る。シートは所々テープで補修してある。前オーナーのせいで、車内にはなんとなく煙草の匂いがする。少し窓が開いてたからか、ひんやりする車内。
「さて」
チョークノブを目いっぱい引く。
くーん、 という音が、聞こえるか、聞こえないかくらいの微かな響きで車内に響く。
カホさんは思う。
ポーターさんが、夢から覚めようとしている。でも、まだきっと寝ぼけてるね。
アクセルに足を乗せる。まだ、そっとやさしくでいい。急に起こしたらご機嫌斜めになるかも。
カホさんは、軽く息を吸い込み、そして、深く吐き出した。
そして息を止め、おもむろにイグニッションキーを廻した。
くくくく。
ばるるんばるるうん!
目覚めた!
珍しく寝起きのよいポーターさんに、カホさんはにんまりした。
「おはよう、ポーターさん。」
話しかける。
「今日も頼むよ」
行先は、カホさんの勤務先。
自分で経営してるキャンプ場だ。
カホさんは、三〇代半ばの女性である。いろいろあって、今は、「森のくじらキャンプ場」の経営をしている。
経営者といっても、従業員が他にいるわけではない。なので、ほぼ一人でなんでもやらなければいけない。
こじんまりとしたキャンプ場だが、やることはたくさんある。
今日も朝から、テントサイトの炊事場に行って掃除や片付け、そのあとは草刈りをしなければいけない。冬と違い、やることは無限にある。
そんなカホさんの朝の楽しみの一つ。
「マツダ ポーターキャブ」の荷台でエスプレッソを淹れること。
カホさんが、「ポーターさん」と呼ぶこの「ポーターキャブ」は、昭和40年代に生まれた(カホさん曰く)「おじいさんグルマ」である。
いわゆる機械式の「キャブレター」車で、もはや中年の歳の者ですら「なにこれ?」と戸惑うチョークの付いたクルマである。
カホさんも最初は戸惑った。でも、慣れればかえってわかりやすいと思う。ブラックボックスがなくて仕組みがわかりやすいものの方が親しくなりやすい。隠し事は少ない方がいろいろと気楽だ。
今日のように珍しく一発でエンジンがかかることもあるが、結局暖気運転がいるため、出発するまでそれなりに時間がかかる。
カホさんは再び荷台に戻り、さっき淹れたコーヒーの続きを飲み出した。とは言え、先程とは違い、振動はすごい。持ってるカップからちゃぷんと盛大にこぼれそうなものだが、もうこの楽しみ方に慣れているので、こぼさず(本人としては)優雅に飲んでいる。
揺れる荷台の上で、カホさんは至福のときを満喫する。
さて、出勤だ。再び運転席へ。
「今日も頼むよ」
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