見出し画像

わたしを救わないあなたのことを

恋人との別れには段階があると聞いたことがある。実感もそこそこある。
まず喪失感、悲しみ、おなかが痛くなるくらいの怒り。ある程度の時間が経ったら受容、少しずつ忘却。一生許さないと憎んだ相手だろうと、罪悪感に押しつぶされそうになった相手だろうと、そこらへんはあまり変わらない。最高の瞬間も苦い記憶も等しくならされて、頭の片隅に軽いエピソードトークとして積もっていく。

わたしを救わない人はわたしにとっていらない。わたしが救えなかった人のことは、鮮明に覚えていても傷つくだけ。
いい男になって見返すとは言うけれど、そう簡単に見返ってはやらない。髪形が少しおしゃれになろうと、体型がシャープになろうと、響きの素敵な資格を取ろうと、そんなものはわたしを救わない。魅力の後払いなんて何の意味もない。わたしのためだって言われても受け取る余裕はないし、義理もない。新しく蓄えた魅力を背負って、わたしの視界に入らない場所で幸せに生きてほしい。

とはいえ。わたしの「いらない」を「いる価値がない」と捉えられたくはない。
世間に認められることはわたしの「いらない」を覆さないし、それを根拠に「センスがない」と非難されても困る。無名の天才が書いた小説とか、偉大なる芸術家の彫刻とか、超便利な調理器具とか、世の中のほとんどはわたしにとって「いらない」魅力にあふれている。それらがよそで誰かを幸せにしているであろうこともわかる。「必要」と「価値」はわたしの中で必ずしも結び付くものじゃない。その中で出会えた数少ない「必要」を、批評家ヅラで「価値がない」と断罪するやつをわたしは許さない。
元恋人。昔好きだった有名人。距離を置いた友達。わたしにとって「いらない」人を「価値がない」と切り捨てるすべてのものを、わたしは軽蔑する。

カラオケランキング上位の失恋ソング。ワンコイン脱毛。月見バーガー。株式投資。クイズ番組。パンツ丸出しの地下アイドル。わたしを救わないものが多すぎてうんざりする。だけど、そいつらはちょっとした心境の変化で急にわたしを救うかもしれない。今、わたしが嫌いなあの人を救っているかもしれない。生きる価値もない世の中、と決めるのはまだちょっと早いと思う。

わたしを救わないあなたは、わたしにとっていらない。だけど、いらない魅力を携えてどこかで生きていてほしい。お互いを笑い話として消費しながら、別々の場所で生きていたい。それができれば、この世は捨てたもんじゃないと当分思っていられそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?