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しょうがないって言わせないで

このご時世だもの、しょうがないよ。

って、ここ一年半でどれくらい言ったかなあ。もう言いたくないな、と思ったそばから同じ言葉をいろんな人に言わせている。実際しょうがないのかしょうがなくないのか、その言葉に傷つけられてるのか救われてるのか、もうわからない。わからないふりをしてどうにか、緊急事態なのか日常なのか判別できないような日々を生きられている。

あなたのせいではないですし、そんなに謝らないでくださいよ。

これも言う機会が増えた。
実際「あなた」のせいではないことが多いし、謝ってほしいと思ったこともない。「あなた」のせいにしてしまいたいと思うこともあるし、「あなたのせいではない」ことは悔しいことも悲しいことも寂しいことも帳消しにしない。だから、謝ることで終わらせないでほしい。「あなた」の中にいる「わたし」に、都合よく機嫌を直させないでほしい。あなたの謝罪なんかでわたしの機嫌がとれるなんて、思い上がりもいいところ。わたしはそんなものよりもっと素敵なものを知ってるし、ほとんどの「あなた」が片手間でするのとは比にならないくらいに全力でわたしの機嫌を取る。何日だって、何か月だって、何年だってかける。そんなことをどの「あなた」にも求めることはないし、求めないほうが幸せだろう。
だけど、全力でわたしの機嫌をとるわたしが、その労力を誰かに労わってほしいと思うのはいけないことだろうか。わたしの機嫌を損ねた張本人ではない「あなた」に、機嫌を損ねたままのわたしを委ねることは許されないだろうか。「しょうがない」と諦められないわたしは、子どもでわがままなんだろうか。

ごめん。でも、しょうがなくない?

言った張本人は忘れているだろうし忘れていてほしいけれど、何年経ってもこれを言われたときのざらつきは忘れない。わたしは「うん、しょうがないね」と言った。関係ないバカ話で水に流そうとしたけれど、心はざらついたまま削られていくだけだった。しょうがないわけあるかボケ。
子どものような無邪気な笑顔と「大人の対応」を同時に求められることに、初めて違和感を感じたのがこのときだ。最近ではこの現象を「精神的ロリ巨乳」と呼んでいる。

謝罪されればそこでおしまい。「しょうがない」と笑って受け入れる。これを繰り返しているうちに、自分が何に怒って、何が悔しくて、何が悲しいのか忘れてしまいそうだ。寂しいって感情も忘れて、誰かと一緒にいる意味も見失ってしまいそうだ。「精神的ロリ巨乳」になってしまったら、わたしはわたしを全力で幸せにできなくなってしまうだろう。

頼むから極力「しょうがない」と言わせないでほしい。好きな人の隣で、自分が空っぽの「精神的ロリ巨乳」になっていくことが怖い。好きな人にもなってほしくない。だけど、彼らに都合よく「精神的ロリ巨乳」を求めてしまうこともあるだろうと思う。そのときはどうか、わたしの理想を演じないでいてほしい。怒りも悔しさも忘れようとしないで、しっかり根に持ったりぶつけたりしてほしい。それこそわがままで幼稚な押しつけだろうと思うけれど、そう願うことでなんとか、「精神的ロリ巨乳」の呪縛から逃れようとしている。

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