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「社会のせいにするな」って言うけどさ

社会のせいにしないほうが無理じゃない?というお話。

こんにちは。Amyです。国会中継を20分以上見続けられないんだけど、これって結構根深い問題な気がする。すごく尺が長いのと、途中で質問に答えてるんだか答えてないんだかわからなくなってめんどくさいのと、ぶわあっと沸き起こるヤジ。何を見せられてるんだ、とチャンネルを変えてしまうことが多々ある。変えた後で、やばいな、と思う。理解を放棄している自分にも、「何を見せられてるんだ」と思わせてくる偉めの大人たちにも。その後で「わかりやすく」まとめられた記事を読む頃には、もういろんなことが進んだり決まったりしてしまっている。国会中継を見られないって、自分の足元がどうなってるか確認できないってことだと思う。私の理解力と集中力の問題。だけど、全国ネットで中継してるんだからもっと「ちゃんと」質問に答えてくれてもよくない…?とも思う。どうしたらいいのか、どうなってくれたらいいのか。国会中継玄人の人、教えてほしい。

「国会中継を見続けるコツ」を教えてくれる人はいなかったけど、「就活のESの書き方」「面接で好印象にうつるコツ」はネットにも書店にも大量に出回っている。自分の足元を確認する方法よりも、その上で「生き残る」方法のほうが需要があるのだろう。でも、それってどうなんだろう?もしその足元がゆるゆるの沼だったとしたら?その地盤を確認せず、自分の足元だけを固めて着実に歩くことってそんなに尊ぶべきことなんだろうか?周りで沈んでいく人たちを差し置いて「抜きんでる」ことを手放しに称賛していいのか?

実際に、私は今ゆるゆるの沼の中に立っていると思う。食べて寝る場所があって、家族とも仲が良くて、私立大学に通えるくらいだから、その沼はすごくすごく浅いものだ。だけど、私が思いつく限りでも、遠くにも近くにも息ができないほど深い沼で苦しんでいる人がたくさんいる。肌の色だけで命が脅かされる人。非正規雇用や性風俗という「セーフティーネット」に頼らざるをえない人。コロナで学費はおろか生活さえもままならなくなった人。自分のこころの性や好きになる性を「社会通念」で否定される人。彼らの声は聞こうとしなければ聞こえないし、聞こえないものは「なかったこと」にされる。私の足元も着実に沈みつつあって、いつ息ができなくなってもおかしくない。社会に出れば「セクハラは日常茶飯事」だと聞くし、「ワーキングプア」「ブラック企業」という言葉がいよいよ他人事と思えない。会社で働き始めた友達からは、先輩に「あんまり最初から頑張るといろいろ押し付けられるから、ほどほどにね」とアドバイスされたという話を聞いた。ずっと「頑張ること」が最大の美徳だと教えられてきたのに、「社会」ではそれは搾取の口実になってしまうらしい。私は頑張ることしかできないから、救われないな、と思った。

そんなとき、周りの大人たちは「そうするしかない」「少しの辛抱だから、すぐに慣れる」と私をなだめる。でも、それでいいんだろうか?それって、沼の中で息をするためのボンベを一時的に貸しているのにすぎないんじゃないか?他の沼にはまった人たちには何の役にも立たないし、私がこれからも沼で苦しむことには変わりない。この私の足元の沼って、所詮人間が作ったものなのにどうして「不変のもの」かのように扱われているんだろう。私はこのゆるゆるの沼みたいな「社会」で「普通の人」であること、「抜きんでる」ことで息をすることを求められるのに違和感があるし、それがいいとも思えない。沼の上に立っていると思うこと、沼の状態の社会に出たくないと思うことは「社会のせいにしている」ってことなんだろうか。公文書も改ざんされて実態を知ることもできないから、それを「見せろ!」と言うことは「思想的」で「左翼」な行動なんだろうか。「就活から逃げているだけ」と言われればそれまでだけど、この違和感をなかったことにして「社会」に出ることが素晴らしいことだと思えない。もう少し考えさせてほしい。違和感を持たせておいてほしい。「就活生のブルー」で片づけないで、一緒に考えてほしい。

本当は、こんな話を同年代の友達とラーメンやカレーを食べながらしたい。それができないので、家の中でひとりくすぶってここにぶちまけるしかない。書いておくことで忘れないようにしたい、というのもある。これを読んで「社会派」だと思われたらだいぶ悲しい。いち個人としての社会への疑問や怒りを、昨日の晩御飯とか流行りのファッションみたいな感覚で話せるようになったらいいのにな。

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