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ファインダーを通して自分を覗く

写真を撮ることが好きだと明確に意識したのは、大学生の頃でした。
アルバイトで貯めたお金で初めて一眼レフを買ったとき、そのずっしりとした重みがとても心地よく、胸を踊らせながら家路についたことを今でも覚えています。

写真は一瞬を切り取る芸術じゃないでしょうか。

#キリトリセカイ #ファインダー越しの私の世界 というハッシュタグが、写真好きな方の間ではよく使われますが、写真は「私に見えたセカイ」を「私だけの瞬間」に切り取ることができます。

だから、ほかの人の写真を見ることは、ほかの人のセカイを覗き込むような気がして楽しい。同じ被写体を目の前にしても、こういう見え方があるんだと感心したことがある人は多いのではないかと思います。以前のnoteで書いた「視点」と似たようなものですね。写真を通してほかの人の世界を覗くのです。

僕は同じような理由で、人の本棚を見ることが好きです。本や漫画、雑誌はその人の思考やライフスタイル、生き方に大きな影響をもたらします。音楽のプレイリストもそうかもしれませんね。その人をその人たらしめているものは何なのか、ということが本棚からは見えてきます。


もっというと、「その人が他人からどう思われたいか」が見えてくると思っています。


「この本はちょっと本棚に並べるのはな…」と思った経験って誰にでもあると思うんです。え、僕だけですか?自己啓発本を読んで、自分が何かした気になっているような大人が嫌いだった頃、ふと手にとった自己啓発本が面白かったけれど、本棚にはおかずにそっと棚の奥にしまったことがあります。

面白かったけれども、家に遊びに来る人に「そういう人」だと思われたら嫌だなと思っての行動でした。本棚はインテリアの一環でもあるので、第三者の目というものを意識して作り上げている人も多いと思います。だからこそ、本棚はその人の趣味嗜好が見て取れると同時に、その人が他の人からどんな人だと思われたいかを覗き見ることができるのです。


ドキ、っとしちゃった人いるんじゃないですか?これも僕だけ?


一方でプレイリストは自分の趣味嗜好が比較的ダダ漏れになっているような気がします。基本的に他人に見せることはないので、よそ行きの様相を呈さなくていいのです。「ロック以外死んだ音楽だ」と尖っていた高校生の僕も、こっそり流行りのJ-POPをプレイリストに忍ばせていました。SNSでいうと、本棚がInstagramでプレイリストがTwitterのイメージかな?

こう考えてみると写真って強烈に第三者を意識する、「見られる」ことを前提とするものだと思います。そうでなければ先ほどお話ししたハッシュタグも生まれてきません。


そう考えると、写真ってファインダーを通して自分を覗くものだな、と思うんです。


今までInstagramやTwitterに投稿した写真をざっと見渡してください。「自分はこういう人だと思われたい」「自分はこういう風にセカイが見えているのだと思われたい」という欲求がぼんやりと薄靄のようにかかっているはずです。構図も、レタッチの雰囲気も、自分の世界観のうえに成り立っています。

そうして改めて写真を見ていると自分も気付いていなかった新しい自分の側面に気づけたり、自分が他者とのつながりの中で本当に大切にしているものが見えてくるかもしれません。

”インスタ映え”って揶揄される言葉のように使われることもありますが、誰しも「人からこう思われたい自分像」というものはあるはずです。これが僕は悪いことだとは思いません。むしろ、その世界観を突き通せている人は心の底から尊敬します。過剰な背伸びや、倫理道徳的に受け入れがたいものは除いて、ですが。


写真は、一瞬を切り取る芸術です。その一瞬にはいろんなものが煮詰められている。「私がファインダー越しに見えたセカイ」だったり、「私はこうしたセカイを切り取る人だって思われたいよ」って気持ちだったり。

写真にはファインダーの向こう側の世界しか写らないのに、カメラを携える”あなた”や”私”のことが見えてくるっておもしろくないですか?

写真を通して、他人を覗く。
写真を通して、自分を覗く。

だから、僕は写真が好きなのかもしれません。








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