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書評|『安政五年、江戸パンデミック。 ~江戸っ子流コロナ撃退法~』立川談慶

ずっと読みたかった立川談慶師匠の意欲作。慶応義塾大学経済学部を卒業。大手総合下着メーカーのサラリーマンを経て落語立川流に入門。立川談志の十八番目の弟子となって九年半の前座暮らし。前座名は「立川ワコール」でした。『大事なことはすべて立川談志に教わった』など、そのときの無茶ぶり、小言を土台にした著作が多数。執筆依頼の絶えない「本書く派」の落語家です。副題は「江戸っ子流コロナ撃退法」。コレラ禍に襲われた江戸とコロナに翻弄される令和のいまとの共通点を考察しています。

「落語家を生んだ江戸の世を支えてきた江戸っ子たちの生き方」にこそ、この厳しいコロナ禍を乗り越えるヒントが豊富にあったのです。

日本が史上初めてパンデミックを経験したのは文政五年(一八二二年)。その頃は鎖国下で、海外との交流窓口だった出島のある長崎から広まり、その勢いは大坂にも及んで、一日の死者が数百人にも達するほどだったようです。ただし「箱根の関」を超えることはなく江戸の人々は感染を免れたようです。

しかし、それから三十六年後の安政五年(一九五八年)の七月にアメリカの軍艦ミシシッピー号の乗組員によってもたらされたコレラが、八月に爆発的に蔓延。江戸でも累計で二十六万人あまりの死者を出したという記録があるそうです。令和のコロナでは志村けんさんや岡江久美子さんの訃報が伝えられ、多くの人にショックを与えましたが、このときは浮世絵師の歌川広重、薩摩藩主の島津斉彬が命を落としたといわれます。

さらには文久二年(一八六二年)にもコレラが日本全体で広まって、江戸では数万人が死亡。明治に入っても三~五年ごとに七度の流行に見舞われたのだとか。

百万都市といわれた江戸。町人と武士がそれぞれ約五十万人ずつ占める割合だったものの、庶民が住む土地は約十五パーセントの比率であきらかな過密状態だったようです。

家族のうち誰かがコレラを背負い込んでしまったら、ほかの家族にも移ってしまい、裏長屋全部が、町内一帯が……と、まあ、江戸の町自体が必然的にコレラのオーバシュートをもたらすような町作りだったともいえるはずです。

コレラの潜伏期間は数日。一気に脱水症状に陥り、重篤になったら二~三日のうちに死んでしまっていたのだとか。「ころりと死ぬ」という意味合いからか、庶民の間では「コロリ」という呼び名が定着していたみたいです。

怖い流行病であることには間違いありませんが、いったん軽めのことばに置き換えて、江戸っ子でもその惨状を柔らかく受け止めるようにした差配の中に、江戸の柔軟性を私は見出します。

江戸落語の原型を作った落語の祖として鹿野武左衛門の話が出てきます。談志が「パロディ屋」と評した狂歌師の太田蜀山人が紹介され、そのしゃれっ気、茶目っ気を受け継ぐ人物として、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をもじった『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』を書いた戯作者の仮名垣魯文の怪人ぶりを浮き彫りにします。

落語に象徴される江戸文化が満開になったのは、西暦でいうと一八〇四年から一八三〇年の第十一代将軍家斉が治めていた文化文政期で、百二十五軒もの寄席があったといわれているそうです。そしてコレラ禍の安政年間には寄席の数が最多になったといいます。当時の江戸っ子たちは、泣きたいほどの辛い現実を抱えていたはず。コレラに身内の命を奪われた人もいたことでしょう。そんな人たちが一瞬でも辛く切ない気持ちを和らげようと落語家の芸に熱中していたのです。

落語が江戸で育まれた背景には「この怖い疫病ですら、笑ってやるぜ」という気概があったのだと思われます。「しゃれのめす」という精神性こそが江戸っ子の特徴だったのかもしれません。落語にはたくましく生きる登場人物がたくさん出てきます。タフです。最後は「意地」なのかもしれない。談慶師匠はそう考察しています。

「不快感の解消を自分の力でやろうとするのが文化、他人の作った出来合いのもので処理しようとするのが文明」。談志はそう定義していたそうです。しかし、どうやら文明でコロナに太刀打ちすることはまだ難しいようです。政府の対策本部で布マスク二枚が全世帯に配られる方針が決められ、莫大な税金をつかって届けられました。外出自粛要請期間中に新聞記者と賭け麻雀に興じていた検察庁ナンバーツーの検事長がいました。家の外に出ると自粛警察が目を光らせています。マスクするのを忘れて電車に乗ると、思いっきり睨まれてしまう世の中です。江戸に暮らす人がタイムスリップしてきて、この様子を見たら、何と言うでしょう。

現代落語論』で談志は「落語とは人間の業の肯定である」としました。また晩年は「江戸の風」を唱えていました。江戸の風とは「良しとする落語の風情」のことです。

お笑い芸人さんみたいに笑いに走りすぎず、評論家みたいにお堅くマジメに分析するのではなく、不真面目でもマジメでもない、非マジメ的なポジションで庶民のストレスを緩和させるのが落語家ではないかと心得ます。

落語のさわりと解説がふんだんに盛り込まれ、談志との思い出、エピソードが随所に散りばめられています。たとえば「あくび指南」。談志は「文化の爛熟そのもの。こんなくだらない噺があるか」と大絶賛していたとか。

果たして世界は変わってしまったのか。江戸時代と現代の令和を比較してみて、少なくとも人間は何も変わっていないのではないか。そう思えてきました。学べることはたくさんあります。

医学未発達の江戸時代、直接的な笑いのみならず、困難でも「笑い」に近いものに変換する庶民の精神性こそ、大きな「免疫力」だったのではと思います。

いままでの手法が通用しない世の中。新しい生活様式が求められる。憂い喧伝されるなかで必要なものは何か。軽妙洒脱な筆致で伝えてくれています。

「一寸先が闇」ならば「二寸先は光」かもしれません。

久しぶりに落語を生で聴きたくなりました。


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