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無理せず生きるために

目次
1:生まれたということ
2:死なない理由
3:生きる理由
4:最後に

1:生まれたということ

この世に産み落とされ、生を受けました。それが幸か不幸かは置いておきましょう。今私は生きています。どうしたいでしょうか。私は自身が他人の人生に最小限の迷惑で幸福であれば良いと思うようになりました。自分が生きている上で誰一人に迷惑を掛けないでいられる人はいないと私はいないと思います。生まれた時点で誰かの(両親)幸福と同時に迷惑です。幸福に覆い隠されて迷惑が分かりにくくなっているだけで自分以外の害悪になっています。人は社会に生きる生き物です。人生を終えるまでそれは続いてしまいます。葬式を行っていただけるなら、人生を終えても尚迷惑を掛けます。つまり、迷惑は自分以外の他人の感情に委ねられてしまうわけです。生きている限り大なり小なり迷惑をお掛けしてしまうのです。

では、迷惑の何が悪いでしょうか。他人が許容できる上の迷惑が迷惑なのだと思います。それは他人(すれ違う人、隣人、上司、先輩、上司、家族、恋人)に依存します。このくらいの事をすると迷惑になると一般的に迷惑行為になると感じることができると思いますが、それぞれの他人についてはどうでしょうか。迷惑を把握することは極めて困難だと私は考えます。迷惑かどうか考えてしまえば、声一つ掛けられません。実際私はそう考えていた事があり、話掛けられるまで話さないこともありました。世間ではコミュニケーション障害というのかもしれません。自分が必要と思ったことも他人にとってはそうでもないことは往々にしてあります。身勝手に他人の時間を奪ってはいけません。感情を害してはいけません。

しかし、他人の迷惑でない時間や感情が把握することは悲しいことに出来ません。どんなに私達が願おうとも叶わないのです。

ということなら、迷惑承知で他人に向かっていくしかないと私は考えます。

仕事に関して質問があるなら、その人の時間を奪って、自分の困っていることを他人に多少なりとも頼って解決しようと自分が思っているわけです。それがたとえ、後々の店舗の業績に良い影響を与えようともです。質問した人の時間を奪ってしまっているのです。

自分の意中の相手がいて、自分がどんなに心を砕いて尽くしたとしても、それを重いと感じたり、趣味に合わなかったり、実は嫌いであったりだとか他人がどう感じるかは自分に理解でいる範疇を越えています。

私は自己中心になれと言いたいわけではありません。私は私以外になれず、感情や思考などを理解できることはないと考えているということです。他人に寄り添うことはとても素敵で尊い行為です。社会生活でも大切な行為だと思っています。しかし、それは的外れになることもあるということです。


であるなら、最大限他人に礼節を払いながら、他人の害悪になることを承知で、自分勝手(じぶんの主張を伝える)にして良いと思います。私が他人に対してした行為がその時のその人に影響を与えなくても、未来のその人やその人に関わった人に間接的に少なからず良い影響を及ぼせると考える、または今の自分に取ってその行為が必要ならその迷惑行為は躊躇うことはないと思います。小さな世界の常識を気にして、何かを成す前に恥じるよりも迷惑を掛けてから学んだ方が、自分の周りの生活には良い影響があると思います。

自分が考えた限りの範疇を逸脱してしまうのが他人、恋人、家族、社会なら迷惑を掛けながら共存しなければ、自分がその輪から外れる手段を考えなければ行けないのが、生まれたということだと私は考えます。外れたら外れたで、産んだ両親の迷惑(感情的、社会的)だとは思いますが…

2:死ぬ必要ない理由

前述したことですが、人は生まれた時から迷惑だと私は思っています。

しかし、誰かの幸福でもあると考えています。

例えば、その瞬間の両親、その後の両親や周りの人たち、自分を慕ってくれた人たち、自分の行為によって間接的に恩恵を受けた人たち、自分を見下して優越感に瞬間でも浸った人たち、好意的やそうでない人様々いるでしょう。

人の幸福とは人それぞれで自分以外には分からないものです。「なんでそんなことが幸せなの?」ということがその人にとっての幸せです。それは他人に理解出来ないことであり、侵害出来ないことです。逆に分からなくて良いことです。社会も友人も恋人も肉親も、その幸せを変えることは出来ません。それが自分の幸せです。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような考え方もあるとは思いますが、それは一応平和と言われる現代では極々少数、むしろいないと思います。タイトルとはズレますが、そこまで熱意を注いで生を全うして死ねるならそれでも良いと思います。むしろ美しいです。何かに没頭したあまりそれが死であっても、それがその人の幸福であったなら生きた理由です。

しかし、今日の幸せを享受出来ないことで死ぬことは自分にとって不幸の極みです。

私は不幸になるくらいならそこから逃げて良いと思います。他人に迷惑を掛けてしまって良いと思います。自分が不幸になることによって誰かの幸福になり、それが自分のほんの少しの充実感になるならそれが幸福です。誰かに不幸と言われようともそれが自分にとっての幸福です。幸福とは自分本位であると思います。ですが、それが欠片一つもないのであれば、自分が不幸と思うならそれは不幸です。

誰かの失敗負ってしまうことや迷惑被ってしまうことが自分の幸福(自尊心や親しい人・好意を寄せる人の幸せ)につながるのならそれで良いと思います。とても身勝手ではあると承知で言うと自分の幸福以外は無視して良いと考えています。他人の迷惑や幸福が分からない以上、私の身勝手な行為が他人の幸せと願って、精一杯生きるしかないと考えます。時に他人に意見を伺っても良いと思います。「あなたのためになりたいと思っています。どうしたら貢献できますか。」とそれが自分の少なからずの自分の幸福につながるなら身を砕くには十分な理由になります。それは自分のためだからです。

自分のため以外に死ぬ理由はないのは、自分の幸福以外に死ぬ理由がないからです。武士ですら自分を肯定するため(幸福のため)死んだのですから、自分を幸福にするために生きて何がわるいのでしょうか。

3:生きる理由

私がこの世に生を受けた理由は幸せを享受するためだと考えています。親しい他人に幸せを与えたれれば更に幸福です。私の生きたことで良い意味でも反面教師であってもその他人にとって幸福であったならこの上ない幸せです。私が身を粉にして事を為した結果、私やできれば私以外も幸福であれば幸せです。誰のためであってもそれが私の幸せならならそれで良いのです。

他人の不幸が本当に自分の幸せなら最悪それでも良いでしょう。ですが、その幸福がいつまで続くでしょうか。相手の不幸にするために生きても、段々と自分が幸せになりたいと思う周囲の人たちはその人から離れていきます。それは不幸ではないでしょうか。

ですから、私は他人の不幸を願う人はいないと信じています。自分に余裕がないあまり身勝手になってしまい、他人を不幸にしてしまう瞬間があることは仕方のないことだと思います。迷惑をかけるでしょう。自分が懸命に日々を過ごす結果、自分の幸福になればよいのです。願わくば他人の幸福になればよいのです。自分の幸せの延長線に他人の幸福があると信じて生きれば良いと考えます。自分の失敗や迷惑や不幸が加害者にとって充実感になりえる場合もあると思います。人がどう思うかはその人しかわかりません。自分が真と考えるならそれを体現して、自分の幸せを追求すれば良いと考えます。

人は自分が幸せを求めるあまり、他人を不幸にしたり、他人を幸せにしようとするあまり、自分を不幸にしたりします。幸福も不幸もその人にしか分からないなら、自分を幸せにするために生きて悪くないと思います。

4:最後に
自分のことは自分しか分かりません。逆にどんなに他人のことを推し量ろうとも分かりません。分かると思っている人がいるとすれば、それはあなたのエゴです。しかし、あなたが誰かのために行った行為がたとえその人のためにならなくても、自分の幸せを肯定するには十分な理由です。自分の幸せを願うのは生きる理由だと私は考えます。少しでも相手の幸福を願ってする行為も、自分の幸福を願ってする行為もあなたの幸せです。それが私達が生きるということです。

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