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【短編小説】派遣教師

 また派遣だ。最近多くないか。中学校の時は、派遣の授業なんてなかった。先生がいなくて自習になることはあったけれども、いきなり見たこともない先生が授業をして、それっきり現れないなんてことはなかった。

 それが、高校2年生になって、急に派遣の授業が増えた。ふつうに次の授業を待ってたら、いきなり知らない人が入ってきて、授業をして、帰っていく。最初はあの人はなんだったんだと思っていたけれど、今ではそんなものなのだと受け入れてしまっている。先生の記憶も残らないが、授業の内容も記憶に残らない。それでも、教科書は進んでいく。

 先週は3時間連続で派遣だった。数学Ⅱ、日本史、体育。数学Ⅱに関しては、めちゃくちゃ中途半端なところで終わっていたのに、ちゃんとその続きから始めていた。つまりは、派遣はシステムとして確立している。緊急措置なのではない。派遣を想定した仕組みができている。派遣が引き継ぐことを想定した授業を行い、派遣がそれを引き継げる仕組みがあるのだろう。つまりはこれは、これからもずっと続いていくということだろう。

 今はまだ、中学校の時のように、一つの科目を一人の先生が教える授業もあるけれども、だんだんとそれもなくなっていくのかもしれない。毎日違う先生が、決められた進度に従って、授業を進めていく。中学校の時には、それなりに親しみやすい先生もいたけれど、そういうのもなくなるんだろうな、と思う。

 先週の授業ではそんなそぶりは全くなかったのに、今日の古典は派遣だった。若い男だ。穏やかで静かな話し方。顔はメガネとマスクであまり表情は読み取れない。特に特徴のある顔つきではない。

 先生は教科書を持っていた。中学校の時には教科書を持っている先生はほとんどいなかった。確か国語の時間にちょっと見たことがあるくらいだ。小学校では全く使わなかったから、それが教科書だとはわからなかった。

 紙ベースの方が良いこともある。僕も紙ベースの本は好きだ。昔から紙ベースの本を学校の図書館で読んでいた。小さい頃から本を読むのは好きで、定番の昔話や偉人の伝記はもちろん、外国のファンタジーに魅了された。小学校にあった紙ベースの本は、そんな本とは違った魅力があった。字は少し小さいし、かすれたような文字で見づらいけれど、それがまた良かった。味がある。昔の人はこんなふうにして文字に親しんだんだなぁと思うと、感慨深かった。たぶん、そんな魅力があるから、教科書を使う先生もいるのだろう。タブレットとは違う、味があるのだろう。少しだけ、その先生の授業はドキドキした気がする。

 先生は教科書を開くと、黒板にテキストを映した。今日は、「仁和寺にある法師」を読むらしい。タブレットを見ると、出典は「徒然草」とある。兼好法師の作品は、中学校でも読んだし、1年生でも読んだ。どれがそうだったかは忘れてしまったけれど、何度か読んでいる作品だったと思う。

 先生は、生徒達のタブレットの準備ができたのを確認すると、本文を読み始めた。

 すると、目の前に、年老いた僧が現れ、旅支度を整えていた。それは、タブレット上に映し出された映像ではない。視覚で認知したものではなく、脳が直接認知したような感覚。視覚で認知したものであれば、目をそむけることができるが、それはできない。強制的にフルダイブさせられたような感覚。自分に自由はない。

 僧は決意の表情で歩きだした。長い長い道をずんずんと歩いていく。そこに迷いはない。時折休みを取りながらも、気持ちが急くのか、足早に歩みを進める。見た目よりもずっと強健で、日常的によく歩いていることが窺える。

 長い道のりの果てに、大きな山の麓に行き着いた。そこは大勢の人で賑わっている。壮年や老年の男性が多いが、若者や女性も混じっている。皆、高い山を見上げて、感嘆の声を上げている。一人で来ている者は少なかったが、ちらほらと僧侶風の姿を見かける。

 年老いた僧はその光景をまぶしく見ながら、目的の建物の中に入っていった。

 そこで視界は途切れ、暗い寺の中に変わった。そこで、先程の年老いた僧が、同じほどの年配の僧と話をしている。どうやら、旅の思い出を語っているらしい。聞いている僧も、にこにこしながら聞いている。念願だった参拝を終えて、その感動を話し、それを祝福している様子であった。

 さぞかしその参拝を楽しみにしていたのだろうし、どうしてもそうしなければならないような強い意志を持って旅に出たのだろう。そこまでの強い意志を、人は人生で何度持てるのだろうか。

 とそこで、視点が急に俯瞰的になり、先程までの場面が絵巻物のように空想の話として感じられた。そして、その絵巻物を見ながら、老成した男の声が「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」と唱えた。

 そうか、これは、一人の老僧の感動を伝えているのではない。その愚かさを皮肉っているのだ。あの老僧が参拝したのは目的の場所ではなかったのだ。あの更に先にこそ、目的の場所があったのに、愚かな老僧は、人に教えを請うこともなく、助言をしてくれる存在にも恵まれず、その場所を目的の場所だと思い込んで、ありがたがっているのだ。

 それでも、信仰とはそうしたものかもしれない。それが世間や社会にとっての信仰対象でなくとも、それをそうだと信じることで、信仰は成立するのではないか。きっと老僧は満ち足りた心持ちだろう。それを聞いている親しい友人もまた、その気持ちを分かち合っているのだろう。それもまた、信仰の一側面である。それを、あの最後の声、おそらくは兼行の声は、否定しきらない。皮肉を交えながらも、その行為を完全に誤りとは断じていない。

 そんなことを考えていたら、気がつくとタブレットの設問に取り組む時間になっていた。先生の声だったのか、兼好法師の声だったのか、それともそれ以外の何かだったのかわからないけれど、その渦中にあるうちに、その余韻に捕らわれていた。目の前の画面では、残り時間のカウントだけが進んでいく。

 正直、それどころではなかった。まだ余韻に浸っていたかった。あの老僧の営みに耳をそばだてていたかった。いったいあの老僧は、どのような人生を歩んできたのだろう。どうして仏道を志し、あの年までどのような日々を送ってきたのか。そして、ずっと憧れた、かの地を訪れたときに、何を思ったのだろう。そこに微塵の疑いも生じなかったのか。それによって失ったものはなかったのか。

 ちっとも設問には気持ちが向かわなかった。設問が問題にしていることには、全く興味がわかなかった。「心憂くおぼえ」の主語は誰か、「徒歩」の読み方、なんてどうでもいい。そんな雑事に捕らわれず、あの世界に戻りたかった。

 あっというまに残り時間はゼロになり、グループ・ディスカッションの時間になった。なおも余韻は続く。友人達も同じような気持ちになっていたのだろうか。皆言葉もなく、タブレット上のテキストを見つめている。うーんとうなりながら。時にはうなづきながら。それぞれが、それぞれの世界で探索を続けていた。それは、とても心地よい時間だった。

 当然、全く意見もなく、ワークシートは空欄のままだった。その空白が、集約された意見だった。

 全体共有の時間になったが、どのグループもほとんど空欄だった。かろうじて言葉の記されたグループの記録は、「誰」だけであった。

 先生は、それらの空白を見ても顔色ひとつ変えず、徒然草の話をしてくれた。それは、どこかで見聞きしたことのある文学史の内容だったけれども、どうにも兼好法師や、その語られた老僧のことを思うと、それらの情報は生きた誰かの軌跡に思えた。

 そんな時間が5分ほど続くと、まとめの時間になり、タブレットに授業の自己評価を入力した。課題にはほとんど取り組めなかったが、「場面を理解できた」といえばできたし、「自分なりに思考を深められた」といえば、これもまたできたので、全く設問には答えられなかったけれども、自己評価は満点に近かった。

 こうして、あっというまに古典の時間は終わった。ほとんど、勉強らしいことは何もできていなかったんじゃないかと思う。でも、終わった今でもあの声が残っている。

 気がつくと、先生はいなかった。

 あの先生は、それ以来、一度も僕の学校には来ていない。

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