心理学は「科学」なのか?
1.心理学は「科学」なのか?
心理学の概論書の中には、「心理学は科学です!」ということを殊更に強調しているものがある。なぜなのか。
私の認識では、心理学は科学の側面もあるし、それだけではないような気がしていた。そんなあいまいな認識を持っているやつがいるから、殊更に強調する必要があるのかもしれない。
そもそも、心理学は「科学」なのか?
2.「自然科学ー社会科学ー人文科学」モデル
まず、「科学」とは何なのだろうか。ここでは、科学と名の付く言葉として、「自然科学ー社会科学ー人文科学」のモデルを用いて考えてみたい。これらはよく、大学などで行われる研究分野を分類するのに使われる用語である。
それぞれの定義はさまざまな説明がなされるが、それぞれを検討しているとよけい問題が複雑になる気がするので、ここでは一方的に僕の定義に従っていただく。
ただ、例としては、「自然科学」といえば物理学、生物学、地学など、「社会科学」といえば経済学、政治学、社会学、など、「人文科学」といえば、文学、史学、哲学、などをあげておく。
3.研究の対象
まず、研究の「対象」と「方法」を考える。「対象」とは、研究対象や、素材、扱うデータなどである。「方法」とは、それらの対象をどのようなアプローチで研究するか、どのような手順で分析するか、といったものである。
そうしたときに、「対象」は、「現実世界にありそうなもの」と「現実世界にありそうにないもの」とに分けられる。
「現実世界にありそうなもの」とは、細胞とか、水とか、分子とか、星とか、金属とか、そんな感じのものだ。五感で捉えられそうなものと言ってもいい。人は五感で捉えられそうなものは、「現実世界にありそうなもの」だと感じるだろう。
一方で、「現実世界にありそうにないもの」とは、幽霊とか、正義とか、愛とか、夢とか、神とか、そんな感じのものだ。それは存在するとは思えても、それを見たり触ったりは難しそうなものだ。
4.研究の方法
次に、「方法」とは、「科学的な方法」と、「科学的な方法以外の方法」とに分けられる。
この「科学的な方法」とは、実験や統計的処理のようなものだ。性質としては、再現性や数量化ができそうなものである。多くはIMRAD(イムラッド)、つまり、①導入、②資料と方法、③結果、④考察という構成で記述されるようなものかもしれない。ただ、これもまた厳密には揺れと広がりがあるんだとは思う。
一方で、「科学的な方法以外の方法」とは、そのままである。「科学的な方法」自体があいまいなままで申し訳ないが、とにかくそれ以外の方法による研究である。
5.「自然科学ー社会科学ー人文科学」の定義
これらの「現実世界にありそうなものー現実世界にありそうにないもの」という分け方と、「科学的な方法ー科学的な方法以外の方法」という分け方を組み合わせて見えてくるのが、「自然科学ー社会科学ー人文科学」のモデルだと思うのだ。
すなわち、「現実世界にありそうなもの」を対象に「科学的な方法」を用いて研究する学問分野を「自然科学」という。
「現実世界にありそうにないもの」を対象に「科学的な方法」を用いて研究する学問分野を「社会科学」という。
「現実世界にありそうにないもの」を対象に「科学的な方法以外の方法」を用いて研究する分野を「人文科学」という。
これが、僕の定義だ。詳しく説明しよう。
6.「現実世界にありそうなもの」とは何か
「自然科学」では、基本的に「現実世界にありそうなもの」を対象に研究がなされる。例えば、細胞とか、水とか、分子とか、星とか、金属とかである。
ところが、かつては「神」とか「エーテル」なんかも「自然科学」に近い立場で研究された。なぜなら、これらはかつては「現実世界にありそうなもの」だったからだ。
一方で、「引力」や「ニュートリノ」なんかは、もしかしたら最初は自然科学としては怪しいものだったかもしれない。なぜなら、「現実世界にありそうにないもの」だったからだ。
だから、自然科学の対象は時代や社会によって変わっていく可能性がある。それが「現実世界にありそうか」が変わっていく可能性があるからだ。
「現実世界にありそう」というと、ちょっと主観的なんじゃないかと思うだろうが、現実世界とは主観的なものだと思うのだ。それを「観測」や「測定」できたつもりでも、それは見せかけのものかもしれない。何か違う働きや違うものの影響でそう「見えている」だけかもしれない。
例えば、「時間」というものは現実世界にあるのだろうか。ありそうな気もするが、それを観測や測定した気になっていても、そのデータはその側面であったり、断片であったりして、もしかしたら我々が素朴に捉えているようなものとは、全く違った性質のものかもしれない。それは果たして、「時間」と呼んでいいものだろうか。
自然科学では、まずは素材を定義する。そして、その定義したものを研究対象にする。だが、その定義が適切かどうかは難しい。定義によっては、現実にないものでも、観測できてしまうからだ。
例えば、「エーテル」を「空間において充満している物質」と定義するのであれば、その存在を証明することはもしかしたら可能かもしれない。だが、ちょっとそれだといろんなことが説明つかないぞ、ということが積み重なって、それが否定されていく。
だが、それはある段階で「自然科学」であったことは間違いないと思うのだ。自然科学は塗り替えられることをおそれない。それこそが、自然科学の価値でもある。
こういった対象に対して、「科学的な方法」を用いるのが「自然科学」なのだと思う。「科学的」という言葉自体が、「自然科学」を連想させる。それくらいに、「科学的」であることは、「自然科学」とっては重要な要素である。
特に、「科学的な方法」によって展開されることこそが、「自然科学」のアイデンティティと言ってもいいかもしれない。言い換えれば、自然科学を営む科学者達のアイデンティティと言ってもいいかもしれない。従って、狭義の「科学」とは、自然科学のことを指すのだと言ってもいいと思う。
この「科学」の魅力は計り知れない。近代の人間達は、この「科学」に価値をおき、「科学」を信仰し、「科学」にとりつかれた。
そして、いつしか、「現実世界にありそうにないもの」も「科学」の研究対象にするようになっていった。
もしかしたらそこには、「引力」とか「ニュートリノ」といったものも入れてもいいかもしれないが、もう少し素朴なものとしては、「社会」なんかがある。
7.「社会科学」の発生
「社会」というものは、見ることも触ることもできないが、「現実世界にありそう」な気もする。しかし、水や金属と比べてしまったら、圧倒的に「現実世界にありそうにないもの」という方が体感としてはしっくりくるだろう。なぜなら、水や金属は触れるが、社会は触れないからだ。
こうしたものだって、かつては「自然科学」に入れてきたはずだ。たぶんそれは、ずっと昔には、「現実世界にありそうなもの」と「現実世界にありそうにないもの」の区別が今よりもずっとおだやかだったからじゃないかと思う。どちらにせよ、「科学的な方法」で研究してきたんじゃないかと思う。それをわざわざ分ける必要もなかったんじゃないか。
しかし、もしかしたら「現実世界にありそうかどうか」に繊細な感性をお持ちの研究者が増えてきたのかもしれない。もしくは、後に述べる「人文科学」とは違うぞ、俺たちは「自然科学」に近いんだぞ、という棲み分けを狙ったのかもしれない。(たぶん、後者が有力な気がする。)
いずれにせよ、「現実世界にありそうにないもの」を「現実世界にある」と仮定して、「科学的な方法」で研究することがなされるようになった。そのことで、「社会」とか「経済」とか「政治」といった、見ることも触ることもできない、この現実世界にあるような気がするけれども、五感では捉えることができないようなものも研究対象にすることができるようになったのだ。
というか、どこかで「これは現実世界には存在しないんだけど、あると仮定して研究するよ」というアイデンティティーを持ったそれは、「自分たちは自然科学に近い」というプライドと理論的なバックアップを得たのだと思う。
そして残されたのが、茫漠たる大地をさまよう「人文科学」である。
8.「人文科学」はどうか
「現実世界にありそうにないもの」を対象に「科学的な方法以外の方法」を用いて研究する分野といったら、とてつもなく果てしない思いに駆られる。なぜなら、あまりにもなんでもありだからだ。
「現実世界にありそうなもの」には限りがある。なぜなら、人間の五感で感じられるものには限りがあるからだ。しかし、「現実世界にありそうにないもの」には限りがない。なぜなら、その多くは人間が生み出してきたものであり、これから人間が生み出すであろうものであり、さらには人間が認識できないものも含むからだ。
また、「科学的な方法以外の方法」というのも、あまりに乱暴すぎる。「〇〇以外」といったら、果てしがないではないか。
少し具体例を考えてみよう。例えば、「人文科学」の代表選手、文学である。
文学の研究対象は、例えば登場人物の「心情」だったり、作者の「思い」だったりする。これらは現実世界にはありそうにない、見ることも触ることもできそうにないものである。
これらを論じるためには、IMRAD(イムラッド、いつまでも覚えられない)で記述するのはあまり適切ではない。研究のアプローチが違うし、より適切な記述方法がある。また、再現性を持たせることや数量化は難しいだろう。「科学的な方法」では、研究の記述としては不適切なのだ。
一方で、実は「科学的な方法」で文学研究がなされないわけではない。例えば、出てきた単語の数を数えたり、同じ表現を抜き出したりといった数的処理を用いた研究などでは、「科学的な方法」が取られることもあるのだ。
従って、実は「人文科学」は「科学的な方法」も取りうることがわかる。ということは、「人文科学」のアイデンティティーは、「現実世界にありそうにないもの」を研究対象にしているというその一点にあるともいえるかもしれない。ただ、「科学的な方法」は例外と捉えることもできるだろう。
もしかしたらこのような中で、「科学的な方法」を用いて「現実世界にありそうにないもの」を研究対象にしたいというニーズが生まれていき、「社会科学」として確立していったのかもしれない。
9.考古学と文化人類学
ここで、考古学と文化人類学を比べてみたい。どちらも、古代の遺跡や文化を扱うという点で、ほぼ同じ領域の学問と言ってもいいだろう。同じようなニュアンスで使われる場合もあるだろう。
だが、考古学は遺跡という「現実世界にありそうなもの」を「科学的な方法」を用いて研究するのに対し、文化人類学は文化という「現実世界にありそうにないもの」を「科学的な方法」もしくは「科学的な方法以外の方法」で研究することが多いと思う。
だから、考古学は「自然科学」寄り、文化人類学は「人文科学」寄りで捉えられることもあるのだと思う。
10.どこまでが「科学」か
以上のように、「自然科学ー社会科学ー人文科学」のモデルを定義づけようとしても、そう型にはめることはできそうにないことがわかってくる。そもそも、多種多様で自由闊達な研究がなされる中で、きれいにすっぽり分類できるわけではないのだ。研究対象も研究テーマもさまざまであるのだから、それぞれに適切な方法も異なる。そんなに杓子定規にいくわけがない。
だが、概ね研究の「対象」と「方法」で分類したものが、このモデルだと思うのだ。
そうしたときに、「科学」とはこのモデルのどの部分を指すのか。
まず、研究対象が「現実世界にありそうなもの」であるものを「科学」という可能性はある。例えば現代において、水や金属を研究するのは科学でも、神や幽霊を研究するのは科学とはいいがたい気持ちがあると思うからだ。
この場合、「科学」とは「自然科学」だけを指す。
次に、研究方法が「科学的な方法」であるものを「科学」という立場だ。例えば「経済」や「社会」といったものでも、「科学的な方法」で研究されているのであれば、科学といえなくもない気もする。
この場合、「科学」とは「自然科学」と「社会科学」を指す。
次に、とにかく研究されているものは、広い意味では「科学」と言ってもいいんじゃないかという立場だ。特に大学で研究されているものであれば、それを科学と言ってもいいような気もしてくる。逆に、大学で研究されているのに、それを「それは科学じゃない」というのも、妙に感じられなくもない。「科学」と名の付くものは「科学」なんじゃないかという気もしてくる。
この場合、「科学」とは「自然科学」と「社会科学」と「人文科学」を指す。
11.「科学か科学ではないか」問題
完全に私の経験上のことで恐縮だが、「自然科学」の研究者にとっては「科学」とは「自然科学」のことのみを指すことが多いのではないか。また、「社会科学」の研究者にとっては「科学」とは「自然科学」と「社会科学」を指すことが多いのではないか。そして、「人文科学」の研究者にとっては、「科学」という言葉にはあまり関心がなく、言葉の範囲はどうでもいいのではないか。
私は「人文科学」の人間である。本当にどうでもいいと思っていた。だから、一部の自然科学の研究者や、一部の社会科学の研究者が「それは科学か科学ではないか」に熱心な関心を向けるのを不思議に思っていた。
そこには、やはり「科学」への信仰が大きく影響しているのではないか。
もちろん、理性的な警戒によるものもあるだろう。さまざまな約束事を守ってきて、それを積み重ねてきたからこそ、今の「科学」への信頼はもたらされた。そのことは誰もがわかっている。
だからこそ、その信頼を脅かすような、約束事も守らない研究を「科学」に入れてしまうことを恐れるのはわかる。
だが一方で、それとこれとは別だというのも自明なのではないかという気もしている。医学的な研究と文学的な研究が同じ文脈で語られることはないだろう。それぞれは、それぞれの記述で語られており、文学的な研究の存在が、医学的な研究を脅かすことはあまりないだろう。(全くないわけではない。)
ただ、それぞれの研究にうとい人間が、それらをごっちゃにしてしまう可能性がないわけではない。
そして何より、「科学」への信仰への侮辱と感じているんじゃないかとも思う。一時期「科学者」が「心霊現象」を排除したように、何かそこにある恐怖感情が影響しているのではないか。なんとなく、理性的な警戒以上に、情緒的な不安をそこに見て取るのである。
12.心理学は「科学」なのか?
さて、ここにきて、じゃあ心理学は「科学」なのだろうか。
先の僕の定義に当てはめてみる。
心理学が対象としているのはその多くが「心」である。もう少し踏み込むと、仮説的構成概念である。そういったものが存在すると仮定して、実験や観察によって分析するのである。
「心」は多くの人にとっては素朴には「現実世界にありそうにないもの」なので、これは「自然科学」というのはちょっと難しそうだ。
そうなると、ポイントは「方法」になりそうだ。
多くの心理学の研究方法や、心理学の論文の書き方で説明されている方法は、まさに「科学的な方法」である。
ということは、心理学は「社会科学」だといえそうだ。
だが、実は、心理学系の論文や論考の中には、「科学的な方法以外の方法」で論じられ、記述されているものが多く存在する。特に臨床心理学系の論文のほとんどは「科学的な方法」で記述されてはいない。
ここで、二つの選択肢が生まれる。
一つは、臨床心理学を「心理学」に含めることで、心理学は「社会科学」のものと「人文科学」のものを含む学問であるという立場だ。
もう一つは、臨床心理学を「心理学」には含めず、心理学は「社会科学」であるとする立場だ。そして、臨床心理学は独立して「人文科学」に含める。
実態としては、この両方が世間で用いられているのではないだろうか。
実際、心理学は、「人文科学」に分類されることが多い。「人文学部」の中に心理学専攻が設置されていることも少なくない。
だが、「心理学は科学である」というプライド、科学への信仰が強い研究者は、心理学は「社会科学である」というアイデンティティーを大事にしたいのだろう。だからこそ、臨床心理学という「非科学的」な研究分野を「心理学」の範疇には入れたくないのだろう。
一方で、世間的なイメージでは、心理学は科学的なアプローチだけではなく、ある種の「非科学的」な研究分野を併せ持つ存在として認識されているのではないか。どこか哲学や文学にも近しいその部分に魅力を感じている人も少なくないだろう。
だから、「心理学は科学」であり、「心理学は社会科学」であり、「人文科学的な対象や方法は心理学ではない」という立場は、世間的な心理学のイメージの持つ豊かさを半減させてしまうのではないか。
もちろん、「社会科学としての心理学」のおもしろさや価値はすばらしい。だが、現状においては、「人文科学としての心理学」とも共存を図っていくのが得策ではないか。
そこにきて、「じゃあ人文科学は科学か」というあたりの議論はあえてしないでおいて、ここは「心理学には社会科学的な研究分野と、人文科学的な研究分野があるんですよ」という立場あたりでいくのはどうだろうか。
その上で、「社会科学というのは、科学的な方法を用いて研究云々」とその特質を説明していけばよいではないか。
つまりは、心理学は「科学」なのか? などという問いはほどほどにしておいて、「科学的な心理学」のおもしろさを伝えることに集中すればいいのではないかと思うのである。
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