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政治と宗教の話をしていこう

「政治と宗教と野球の話はするな」という言葉がなぜ使われるようになったのか。

図書館のレファレンスを紹介する「レファレンス共同データベース」でもこの件が扱われている。


用例を見てみると、そもそもがビジネスの文脈で、顧客との会話において「政治と宗教と野球の話はするな」という言説があったことが窺える。

確かに、営業の文脈で、このようなデリケートな話題を出さないようにするというのは、自然なことに思える。これが現代であれば、もっと禁忌とされる話題はありそうなものだ。

これは、営業の文脈ではそもそも必要のない話題である、ということもある。商品にもよるだろうが、家族やパートナー、職業や国籍について話題に出さなくてもよいなら、わざわざ出さない方がよいこともあるだろう。


そう考えれば、それが飲み屋で偶然会った初対面の相手はもちろん、親しい友人との間で「政治と宗教と野球の話はするな」というわけではなかったようである。

おそらく、いつのまにかそのようなビジネスの文脈での警句が、そのほかの場面でも適用されるようになっていったのだろう。


その流れが何者かによる働きかけによるものなのかどうかはわからないが、結果的に政治や宗教の権力者に有利に働いていることは否めない。

政治や宗教について表立って語る機会がないことは、政治や宗教の権力者にとって、現状を維持することに貢献している

政治も宗教も、自分達の実態に関心が及ばないことは良いことである。自分達の内部や、深く関わる一部の人達との関係の中だけで、思い通りにことを運ぶことができる


秘密と親密さの相性はいい。

太陽の下で公明正大には出せないようなことも、親密さの中で着々と事が運んでいく。

「政治と宗教と野球の話はするな」という警句によって、秘密裏に、親密さが育まれ、力を持つ者達に有利な状態が維持されている


政治について語ることを失った国民は、その主権を行使する機会を奪われる。その主権自体に無関心になっていく

宗教について語ることを失った国民は、宗教に対して免疫を失い、何が宗教なのかもわからず、宗教団体に搾取されていることにも気づけぬままに、なすがままになっていく


「政治と宗教と野球」という表現では、「野球」がいかにもオチになっているようにも思える。「政治」と「宗教」は自明のことだが、「野球」もまた語らない方がいいよね、という冗談にも思える。

この表現によって、政治と宗教について語らないことを自明のこととするロジックが成立し、まんまと我々はそれを当然のこととして受け入れてしまっている。


「酒の場で議論は避ける」というのも、ちょっとどうかと思う。

議論のタネになるようなものは、政治や宗教以外にだってたくさんある。というか、議論にならないような話題なんて、どれほどあるだろうか

例えば「好きな~」の話をすれば、必ず議論になる。好きな歌手だろうが好きな映画だろうが、好きな食べ物だって、何だって議論になる。

それなのに、政治と宗教だけ避けるのはおかしい。政治と宗教に特別感を抱くのは、語り慣れていないからだ。好きな食べ物について安全に議論できるのであれば、政治と宗教だって、安全に議論できるはずだ


政治にも宗教にも散々問題点が指摘され、これらについて語ることの重要性が高まる中で、なおも「政治と宗教と野球の話はするな」という根拠なき警句はそれを阻害し続けている。

政治も宗教も「正しい状況を知る」ことは大事ではない。むしろ、そんなものはない。どんな情報にも事実と事実ではない部分は存在するし、真偽そのものが大事ではないこともある


大事なのは、「語り合う」ことである。それは対話であり、コミュニケーションだ。

自身の立場を語りながら明確にしていき、他者と語りながら変容させていく営みが重要なのだ。


学校教育も企業教育も、コミュニケーションの大事さを重要視して久しい。けれども、特に「政治と宗教」については、これを放棄してきたのだ。

言うまでもないことだが、主権者教育で大事なのは、選挙のデモンストレーションではなく、政治について語ることだ。当然その前提に知ることもあるが、それ以上に語ることがずっと大事なのだ。語ることは、考えることでもある。考えることなしに、知ることだけで判断することほど愚かなことはない。

宗教においても、本来対話は大事なことだ。キリスト教だろうが、仏教だろうが、対話こそがその核であるといってもいい。その中で育まれてきたのが、今の宗教の豊かさである。


そんな、政治と宗教のコミュニケーション失調の後ろ盾として働いてきたのが、「政治と宗教と野球の話はするな」なのである。

我々は、この言説がビジネスの、それもごく限られたシチュエーションにおいて、しかもかつての時代において言われたものであり、決して適切なものではないことを自覚しなければならない。

そして、この言葉によって失われてきたものの重大さを受け入れ、今後は積極的に政治と宗教の話をしていかなければならない。


もし、飲み屋でこの警句を用いる人がいたら、こう伝える。

「それは、昔のビジネス書に書いてあった話で、今はそんな時代ではないんですよ。今は政治と宗教の話はちゃんとしていく時代なんですよ。政治や宗教に騙され、被害にあってきたからこそ、ちゃんと話していかないといけないんですよ。」



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