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【連載】「こころの処方箋」を読む生活(pp.86-89)

相手を理解する。これが教育の核心である。

教育学部で学んだことで大きかったことは、生徒理解の大切さである。生徒を理解するところから、授業の目的、教材研究が始まっていく。授業の目的が最初にありきではなく、もちろん教材から始まるわけではない。

しかし、実態としては教材から始まることが多いのが学校教育の難しさである。百歩譲っても、授業の目的が先だってしまうことが多い。

教育学部では、あくまで生徒理解から始まることは、手を変え品を変え、何度も繰り返し提示されてきた。

端的には指導案で、指導案は「生徒観」から始まるというのは、どのスタイルでも共通していた。えてして主従が逆転してしまいがちなことの現れである。

一方で、生徒を理解する、もしくは相手を理解する、誰かを理解する、というのはとても困難な営みである。

まずもって、相手に意識を集中することは難しい。どうしても自分が伝えたいことや、自分の気持ちがじゃまをする。

その点で学ぶべきは、ロジャーズ(ロジャース)のカウンセリング理論である。

東畑開人(とうはたかいと)は、「半臨床心理学はどこへ消えた?――社会論的転回序説2」(2022,『臨床心理学増刊第14号』p.10,金剛出版)という論考の中で、日本の戦後の1945年から1970年頃までを「ロジャースの時代」と呼んでいる。

つまり、戦後すぐの時代背景の中で導入されたカウンセリングがロジャーズのカウンセリングであり、そこでは「臨床家の作法が協調され」たと言っている。

ここでの「臨床家の作法」を象徴するキーワードが「傾聴」だろう。最近もまた「傾聴ブーム」が通り過ぎたような気もするが、傾聴というのはとてもポピュラーな用語として使われるようになってきた。

少し前のニュアンスで傾聴というと、とにかく相手の話を聞き、こちらから意見を差しはさまず、うんうんとうなづいたり、「〇〇なんですね」とオウム返しをする技法を指していたような気がする。

これはこれで、本家本元のロジャーズの理論からすると、ハンター×ハンターでいう「念」と「燃」くらい違うものであるが、一方で、ある程度は役立つものでもある。

確かに我々は、何も気を付けていないと、相手の話を遮りがちだし、一方的に意見を伝えがちだ。それを戒める技法としては、一定の効果はあると思う。

だが、ちょっと考えればわかるとおり、全ては「時と場合による」のであって、いつもそんな杓子定規に対応することがカウンセリングかといえば、そういうことではないだろう。

その背後にある理論を理解した上で、結果的に同じしぐさになることはあるかもしれないが、ロジャーズのカウンセリング技法の実態はずっと多様で繊細である。

また最近だと、「とにかく相手の話を熱心に聞く」というニュアンスで「傾聴」をとらえることも出てきたように思う。対人支援に関わる仕事はもちろん、カスタマーサービスや接客にまで使われているようにも思う。

もともとの高度な専門性を持つ「傾聴」という用法からしてみれば、そんなに誰もかれもが、おいそれと「傾聴」などしていることに非常なおかしみを感じる。何十年もかけて洗練させていく技術を、誰しもがカジュアルに用いているようなおかしみというか。

それでは、本家のロジャーズはどのようなものかというと、そんなことを簡単には言えないし、それを自分が理解できているとは全く思えないので、なかなか難しいのだけれど、少なくとも「カウンセリングの基本的態度」というものは抑える必要がありそうだ。

これは、「カウンセリングの三条件」とか言われることもあるようだが、こうなるとずっとテクニカルなものとして受け取られがちだが、やっぱり「三つの基本的態度」という言葉の方が、ニュアンスとしては適切だろう。

これひとつとっても、いろんな人がいろんなことを言っているので、ひとくちには言えないけれども、ここでは河合隼雄の言葉を引く。

河合隼雄は『カウンセリングの実際問題』(1970,誠信書房)の中で「カウンセラーの基本的態度」について述べている。

カウンセラーの基本的態度には、大きく三つあり、それを「無条件的積極的関心」「共感的理解」「純粋」としている。(このロジャーズの三つの言葉の訳し方も、いろいろなものが出回っている。)

これらを全て語るほどの気合いは今ないので、部分を抜き出すが、ここでは特に「純粋」に注目する。

これだけとっても非常に複雑な実態を持った態度を指すのだが、ある部分を抜き出して私の解釈で言うと、「自分に正直になって相手の話を聴く」ということである。

先に述べたように、人の話を聴いていると、自分の意識や気持ちが邪魔をする。しかし、その意識や気持ちにフタをするのでも、追い払うのでもなく、それを受け止めるということである。

例えば、「先生、僕は将来作曲家になりたいんですよ」という生徒に対して、「作曲家なんてやめといた方がいいんじゃないかなあ」「作曲家ってなんじゃい、どんな職業なのか見当もつかない」「この生徒は成績もいいし、医学部を目指せるのになあ」なんて思ったりする。

そのときに、そんなことを考えてはだめだ、と思うのではなく、自分のその考えを自覚しながら、生徒の話を聴くのである。そして、生徒の話と自分の考えを捉えながら、そのあいだあたりに、意識を向けていくのである。どちらを切り捨てることもなく、そのあいだに意識を向けていく。

これは「態度」の話であって、実際に言葉にするかどうかは別問題である。「私は作曲家なんてやめといた方がいいと思うよ」と言葉で伝えるのではなく、ただそれを自覚しておくのである。また、必ずしもそれを言葉で伝えることがわるいわけでもないだろう。

とにかく、そんなに杓子定規にいかないのが、カウンセリングの態度なのである。

生徒理解もまた同様なところがあって、徹頭徹尾同じ姿勢で貫くというのは無理である。それこそ実態を無視した机上の空論である。そんなに単純ではないのが人を理解するということだ。

『こころの処方箋』の「20 人間理解は命がけの仕事である」の中に、次のようにある。

うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり「命がけ」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。

河合隼雄『こころの処方箋』より

他人を理解しようと思ったら、自分がぐらつくのである。それはまさに「命がけ」の営みだといえる。

私はこれがまた、おもしろいところだとも思っている。自分がぐらつくことによって、自分が変容する。それまで見えていなかったものが、ずっと鮮明に見えてくる。山を登った人間がふもとの村々を見た時のような。空を飛んだ人間が地上を見た時のような。ルーペを手にした少年が昆虫の繊毛に気づいた時のような。顕微鏡を手に入れた人類がウイルスと向きあった時のような。

誰かを理解するという営みは、そんな機会にもなりうる。これがまた、生徒を理解することのおもしろさでもある。

だからこそ、生徒理解は非常に大事だし、困難な営みでもある。困難さを乗り越えることで得られることは多い。

裏を返すと、生徒を理解しない方向の教育活動から得られるものは、ずっと少なくなる。もちろん、困難な営みばかりでは日常は過ごせないこともあるだろう。現代の教師はとにかく忙しいと言われる。膨大な業務の中で、結果的に犠牲になるのが、生徒理解なのである。

困難な営みに魅力を感じていながらも、じっくりとそこに向き合えないジレンマ。それが学校教育において最も教師たちを疲労させていることの一つなのだと思う。

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