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福岡ー熊本間、片道25,000円物語

16年前のこの日。僕は、部屋で一人、そわそわしていた。
さっき確認したばかりなのに、携帯の新着メールチェックボタンを押す。「新着メールはありません」の表示を消すのは、何度目だろうか。がっかりと安心をひとつにして、携帯と一緒にテーブルに置いた。テレビをつけても、僕だけショーウィンドウのこっち側に来たみたいに、ぜんぜん頭に入ってこない。
(また、明日だな。今日はもう寝よう。)

おやすみのメールを送ろうと手を伸ばした瞬間、携帯の方が自分でブルッととふるえた。
「-来たかもしれん。」
妻からだ。
「今、来たところ?どんな感じ?」
「夕方くらいから、痛いなって思い始めて。だんだん間隔が短くなってる気がする。」
「すぐ産まれるかな?どうなるか分からんよね?」
「まだ、大丈夫と思う。お母さんもおるし。また連絡する。」

時計は、22時をまわっていた。妻は、里帰り出産のために、熊本の実家にいる。まだ車を持っていなかった僕は、福岡から熊本への移動は、高速バスを使っていた。
この時間は、もう高速バスの最終便は終わっている。朝イチのバスで熊本に帰れば、立ち会いには間に合うだろう。
そんなやり取りをしていると ー。

「やばい!もう無理。産まれるかもしれん。病院に行く。お母さんが連れてってくれるから大丈夫。また連絡するね。」

職場で、予定日を過ぎたからそろそろかもしれませんと話していたのは、昼過ぎだっただろうか。噂をすれば、こんなことも実現するのか、なんて考えてしまう。いつ休みになってもいいから、すぐ連絡してくれと言ってくれた上司の顔が浮かんだ。職場には、朝になって連絡しても大丈夫。
選択肢は、ふたつ。朝イチで移動するか、今すぐ何とかして熊本に帰るか。絶対に間に合うと分かっているなら、朝を選ぶ。でも、もし間に合わなかったら?

思考はクリアだった。とても眠れそうにない。はじめての出産に立ち会えるのは、今だけ。逃したら後悔する。だったら、答えは決まっている。

妻とメールのやり取りをしていたのは、ほんのわずかな時間だと思っていたけど、もう24時近くになっていた。JRも終わっている。残されているのは、タクシー?それとも、レンタカーもある?
調べてみると、天神に一軒だけ、24時間営業のレンタカー屋を見つけた。熊本行きの準備を済ませ、大通りに出ると、タクシーはまだ走っている。飲み会帰りのビジネスパーソンを、家まで送り届ける車両もたくさんありそうだ。運よく一台つかまえ、行先を天神と告げた。

「お客さん、珍しいですね。若いのに、こんな時間に天神ですか?」
「はい、ちょっと用事ができまして。」
「そうですか。何か分かりませんが、大変ですね。」
「運転手さん、ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
「はい、どうしました?」
「タクシーで、熊本まで送ってもらうことってできますか?」
「え、熊本?今から?行けと言われたら、高速使って行けますけど、どうかしましたか?」
「いや、ちょっと聞いてみただけです。ちなみに、熊本まで行くなら、タクシー代はどのくらいになるんですかね?」
「そうですね。深夜料金もありますけど、2万くらいですかね。なんか、よっぽどの事情があるんじゃないですか?私でよければ、聞きますよ。」
「実はですね、 -。」

妻が、里帰り出産のために熊本に帰省していること。さっき、もうすぐ産まれそうだと連絡があったこと。天神でレンタカーを借りて、急いで帰ろうとしていること。レンタカーの料金はだいたい調べたけど、タクシーでも帰れるなら、お願いしたいと思ったこと。
僕は、運転手さんに伝えた。はじめての子どもで、ドキドキしていることも。

「そうですか。事情は分かりました。それなら、こういうのはどうでしょう?とりあえず、急いでレンタカー屋に行きましょう。子どもさんが産まれたら、しばらくそっちにいるんでしょ?レンタカーは、『乗り捨て』って言って、現地の営業所に引き取ってもらう方法があります。その分、料金がプラスになりますが。外で待ってますから、計算してもらいなさい。それから決めたらいいですよ。」

神のお告げかと思った。
「ありがとうございます!そうさせてください。」

話しているうちに、目指すレンタカー屋が見えてきた。明かりはついてる。調べた通り、24時間営業の店舗だ。

「ほら、行ってらっしゃい。」

運転手さんに待ってもらい、レンタカー屋でも事情を話した。幸い、熊本にも乗り捨て対応の営業所がある。料金の計算をしてもらうと、こちらの方が少し安くなりそうだ。
運転手さんに伝えると、笑顔でこう言ってくれた。
「よかったですね。夜の運転は、昼間とは違うから、気を付けて。くれぐれも、安全運転ですよ。がんばってください、おとうさん。奥さんを、しっかり支えてあげてくださいね。」

何度もお礼を伝えてから、タクシーと別れた。見えなくなるまで頭を下げて。

そして、呼吸を整えてから運転席に乗り込み、エンジンをかけた。

熊本に着いたのは、3時頃だっただろうか。
移動中に、産まれるのはどうやら夕方頃になりそうだとメールが来た。面会時間は午後から。それなら朝の移動でも間に合っていたけど、これでよかったと思った。近くにいるから、あとはもう待つだけだ。

タクシー、レンタカー、高速、ガソリン。
交通費は、25,000円。

2005年1月20日、17時17分。
長男が産まれたその瞬間に立ち会えて、妻は母親に、僕は父親になった。

※illust by:あんぱんさん/ イラストAC

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