見出し画像

【雑記】その時死んだと思った

3月11日14時46分のお話。
都内ですが。

その時何かが壊れた

都心部で業務中だった

私は今の障害者事務職になる前まではずっと施設に常駐する設備管理のお仕事を長くやっていました。
もちろんその頃もとある地下街で設備のお仕事をしていました。

その日は巡視点検が主な業務の日。
いつもどおりちょいちょいサボりながらマイペースにルーチン業務をやっつけていた。

ひと息ついたところで緊急地震速報

地下3階の設備スペースにケータイ(当時はガラケー)の電波が入りやすい場所があります。
そこでひと息ついていたところに緊急地震速報がケータイから鳴り響きました。

とりあえず揺れに備えた。
ドキドキしているとだんだん揺れてくる。

、、、どんどん揺れが強くなってきた。
歩いて移動するのが危ういくらい大きくなってくる。

揺れ上がる恐怖

設備用の空間なのでコンクリートは打ちっ放し、照明は最低限、天井の空調ダクトはむき出し。

特に天井のダクトは激しい揺れで轟音を鳴らし私の恐怖心もぐらぐら揺さぶってくる。ショックで固定金具が外れれば落下してくる恐れもあった。
手には巡視点検用紙を挟んだバインダーのみ。
そのつたない防具を頭に掲げて頭上に注意する。

横では電子機器を載せたラックがヘッドバンキングをしていた。
隣の部屋への扉があるがそちらは巨大な水槽がある部屋。少し開けてみてすぐに閉める。

薄暗い地下で感覚過敏が見た世界

ちなみに現在位置は2ヶ所ある地上に上がる階段のどちらからも一番遠い場所。
照明も点検をする場所ではなかったので最低限の薄暗い状態。

被災場所は一般公開できない場所なので加工したイメージです

轟音と見た事のない揺れ方をする設備たち。
揺れは途方もなく長く感じた。
後に明らかになる感覚過敏の人間が見た世界。

経験したことのない恐怖

震源を知らない私は、
「関東大震災がきた」
「このまま埋まって死ぬかもしれない」
本気の死の恐怖が頭をよぎっていた。
経験したことのない恐怖。

この瞬間自分の中で何かが壊れた。

とにかくひとりでいたくなかった

永遠とも思えた揺れが収まった。
すぐさま近くにあった内線電話で中央管理へ連絡。
業務連絡よりも”人の声が聴きたい”気持ちが優先だった。
居場所と各所点検して戻る旨を報告。

ガクガクになった足をなんとか動かし上層階を目指す。
途中給水設備では揺れで溢れた水をドバドバ排水していた。
むせかえる消毒用塩素の臭いを横に進んだ。
これは正常な機能なので問題ない、が、細かいところまでは見る余裕はもうなかった。

その後一人ついてきてもらい点検を済ませる。
幸い被害はなかった。

地震情報を知る

中央監視で地震の詳細を知る。
甚大な被害が想定されるのは東北でこの辺は震度5程度。
いやそんな優しい5じゃなかった。
地盤の悪い地帯だし体感で6はあった。
周囲の話をまとめると地下の上層にいた人ほど揺れの感じ方は小さかったみたいだった。

時間が経つにつれて津波被害、原発事故などこの国がひっくり返ったようなニュースが流れてくる。

ゆっくりと確実に壊れていった

帰宅困難者が集う夜

私の職場は宿直ありきの場所なので仮眠室というものがある。
前線見合わせているその晩は順番に仮眠をとることになったが私は眠れなかった。
眠ろうとしても隣の部屋でつけっぱなしのテレビから時折緊急地震速報の音が聴こえてくる。

帰宅困難者は普段は夜間閉める地下街を解放し、空調も入れて過ごせる対応をした。
静かな中壁際にずらりと並びうなだれている人たちの光景は異様だった。

一旦帰宅することに

夜明け前に私が帰れるルートの鉄道が運転再開したので一旦帰宅をしたくなった。
当時は持家であり、当時の妻も別の場所で泊まってやり過ごしていたので確認と合流をして安心したかったのだ。
連絡はケータイは繋がらないので当時流行っていたmixiのメッセージ機能を使った。

翌日も勤務だったがなりふり構っていられない不安感があった。

電車移動中静かな車内で一斉に鳴り響く緊急地震速報。
そして一斉に聴こえるため息。
一時停止する電車。
それを繰り返し陽が昇った頃帰宅した。

眠れなくなっていた

自宅は全く問題なく少しソファで横になってみたが眠れなかった。
情報が途切れるのが怖くてずっとテレビを映していた。

自宅の確認と当時の妻との再会を経て再度出勤。
シフトどおりの宿直。予定通り夜間工事の業者が来る。
しかし私の胸の中にはもやもやしたものが膨らみ対応が雑になった。
そしてそれは私自身の身体に現れてくる。

その時から私の睡眠は当たり前のものではなくなっていて、中途覚醒や早朝覚醒は当たり前になっていた。
眠れない時間は震災にに関する情報を囚われたようにずっと見ていた気がする。

不眠は不安を膨らませる

PTSD、そういう状態だったのでしょう。
それに伴う症状がどんどん現れ、不眠、不安、回避と精神状態がどんどん悪化していきました。

不安に伴う私の言動の悪化から夫婦間の関係は悪化。
現場を共有した人がいないので周囲からは不安を訴えても「騒ぎすぎ」「自分らも怖かった」で済まされました。
そもそも感覚の度合いも違うでしょうから余計です。

完全に壊れた

糸が切れたように

その年の夏、心の健康状態と当時の環境が重なることでプツリと糸が切れたように私は壊れました。
涙が止まらなくなり、頭は真っ白。
何もできなくなり休職へ、人生初の精神科を受診します。

社会不安障害

最初についた診断名は社会不安障害。
地震のことも色々話しましたが当時は頭が混乱しており、夫婦関係の悪化からひとりでクリニックを探し、ひとりで受診したためそれ以上の説明ができませんでした。
たしか、遡り過ぎて父親との関係まで話してしまったような気がします。
その後診断には鬱病も加わりました。

当時クリニック以外で周囲に私のとめどなく溢れる不安を相手にしてお話ができる人が誰一人いませんでした。
誰かひとりでもいたら。。。

壊れるのは自分だけじゃなかった

私の収入が不安定になったことで夫婦関係は完全に崩壊。
持家は売却、別居、離婚と続き、そんな中体調を維持できるはずがなく、アルコール摂取のコントロールも完全に失って職も失います。

実家とは父親との関係悪化から頼れず、友人は妻サイドばかり。
横浜市の端っこの安アパートで傷病手当金を頼りにアル中バリバリの生活をひとり送ることになった。

あの日から12年

後半は災害ではないけどこれがあの日から1年半くらいで起きた出来事。
そしてあの日から干支がひと回りしました。
PTSDはまだ影を残しています。

ですが今生きてます。もうボロボロで精神障害者としてしか生活を維持できませんが身体があればなかなか死なないものです。

何年かに一度大きく振り返っていますが、こういうのは終わりにしたいと思います。伝えたいときはこの記事のリンクを使おう。
やっとここまできたので。

なかなかできない経験をしたというお話でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?