勉強を楽しくする方法57〜外国の著作について〜

外国の著作を読むことがある。
原文で読むことができれば一番良いが、日本語訳で読んでも勉強ができる。

外国人の文章はレトリックやユーモアも、やはり日本人とは違いを感じる。
単純に面白いたとえだと感じることもあれば、外国で当たり前とされている格言やシェイクスピアのセリフなどを、知らないことで気遅れすることもある。

しかし、当然のことながら、日本では見当たらない知的レベルの学者や権威の著者もいる。

ヨーロッパの方が学問の歴史が長いものもある。
話が面白かったり、日本では見られないような深い議論が展開されており、知的関心が呼び起こされることもしばしばだ。

さらには、日本の話題が出てきた時も関心が高まる。
日本人にとって興味深いのは、外国人が分析した日本の統計や日本への見方と出会う時である。

たとえば、経済学の話で少子高齢化について触れられている時、これが日本だけでなく、アメリカや欧州などの先進国が共通して懸念している問題であることを知る。

そして、その国々が日本を特に少子高齢化が進行している国として引き合いに出す時、いよいよ自国の様子が見えてくる。
自国の危機がまざまざと顕在化する。

日本を相対化でき、外国人の印象も同時に知ることができる点は外国の文献を読むことで、意外で楽しい部分かもしれない。
驚くことも多い。

そして、知的レベルの高さ、知識の深さを求めるならば、外国の書籍は有効打になるかもしれない。

私も、昔は翻訳本を敬遠していた。
たとえが多く感じたり、あまり高尚な印象を抱かなかったため、日本の著名人の本ばかりを読んでいた。

私が外国人の著作を読んでいて思うことは、単純で明快に述べる傾向や何度となく同じ主張を繰り返すと言った点である。

特に、リピートに関しては、何度もぐるぐる同じ主張をし過ぎているように感じたものだ。
手を変え、品を変え、とにかく同じ主張を繰り返す。

それは外国人の表現形式なのだろうか?
それとも、我々の記憶に刷り込むために、わざとそうしているのだろうか?

そう思わせるに十分なほど、リピートされている。

そして、問題提起や伏線の配置、結論の叙述が痛快な歯切れ良さを持っていることをよく感じた。

日本の文献だと、イマイチ主張がシンプルになってなかったり、そんな周りくどく言う必要はないだろうと思うこともある。
もっとストレートに言うべきだと感じることはしばしばある。

つまり、人に伝えるということは、究極的にみんなが分かるように主張する必要があるのだから、小難しく小賢しく書く必要は全くない。

そして、外国の書籍は割と、難しい内容であってもシンプルで分かりやすい主張であることが多いと感じる。

もちろん、ドストエフスキーなどの重い文章のこともあるけども。

今回書いたことはあくまでも、私の個人的な見解なので、真逆の印象を抱く人もいることだろう。

私は外国本を敬遠してきた分、差異をことさらに意識しすぎている部分があるかもしれない。

しかし、これだけは言えるだろう。
日本は世界の70分の1の人口しかいない。

そして、日本語の著作のみで学習を進めることは、70分の1の世界しか知らないということだ。
知的に高度な内容の本が、世界には無くて、日本にのみあると言い切れるだろうか?

世界は広い。
日本以外の場所から学べることは確実にあり、むしろ、日本の方が珍しいということに気付くあたりから、学びのグローバル化が進むのかもしれない。

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