歴史と経済50〜仕組み〜

人は仕組みに規定される。
かつては教育者は聖職者であるとされた。
教えるという行為は、最大の学びでもある。
この世界には、内容を熟知していることはもちろんのこと、子どもを開眼させるような学習形態を構築し、パフォーマンス力も有していないといけない。
ただのインテリ学者では務まらない仕事だ。
教師の言動一つで子どもはすぐについていける教師なのかどうかを見抜いてしまうからだ。


そして、安定した生活が営めるほどに収入面で保障があるものの、最近では教育界への社会の風当たりは強まっている。
保護者の要望も増加している。
時代の要請と称して、教員の仕事の幅は広がり、求められる専門性もより高度になっている。
教員の職場環境はより過酷になってきているにも関わらず、教員自身がお金や名誉を後回しにして、子どもにいかに力をつけるかに全力でコミットする。
それが好きな人種なのだ。


教育という世界は学識と教授力など、学びに関する全てが必要とされる上に、非効率的な部分が多い。
少なくとも子どもの成長は効率的なものではない。
子どもの学校における全活動に向き合おうものならば、絶対的に時間を投下せざるを得なくなるゆえに、子どもの成長を見取ることを生き甲斐とする人種にしか本来的にはできない仕事だろう。
彼らのほとんどは、現代でも惜しむことなく勤務時間帯に関係なく自分の時間を、子どもの活動に投下する。
誰もいない校舎で陰ながらに努力する姿があるだろう。
その見えない努力を子どもはなぜか、感じとる。
それは教師が作成したワークシート一つとっても分かるというものであるが、何よりも教員自身が放つオーラに表れているのだと思う。
これだけ準備したからこそ、自信を持って指導する。
その姿勢が子どもを突き動かすのだろう。
そのオーラを纏うために、教員は弛まぬ努力を繰り返すのかもしれない。


授業は知識の暗記を強いる場でないことくらい、教師教育の世界ではとっくの昔に相場となっている。
いかに、社会の認知力を高め、市民的資質を養うか。
社会の見方を広げ、社会を批判的に見ることを教えるのか。
内容知も去ることながら、その内容をいかなる方法で学び、子どもたち自らが主体的・対話的に探究していくのかが議論される。
この学び方や授業のあり方を熱心に深く掘り進めるのが、教育界の特徴だとも言える。


しかし、一方では高校現場ではいまだに暗記重視、講義形式の授業が行われていることも否めない。
これは、現場の先生方が子ども達の学びに対して真剣ではないという事を意味しない。
むしろ、現場の先生は子どもに一番メリットがあるように努力している。


授業でどれほど社会の見方を洗練させる高尚な指導を実施しても、大学入試となるとやはり知識量と得点重視のテストに篩をかけられるのだ。
社会に対して意見を言える生徒を育てたとしても、大学入試に失敗したならば保護者はどう思うのかは想像に難くない。
市民的資質の育成と直近の大学進学、どちらを優先すべきなのか。
その選択も世間的には後者を選びがちだろう。


つまり、授業の理想形と入試がつながっていないのだ。
得点を取らせることと社会認識力を両立する授業はできないのか。
そういう意見もあるだろう。
しかし、重心がズレていることそのものが、まず議論されるべきではないだろうか。
現状においても時間が限られている上に、内容量は膨大であり、どの教科も時間の確保に必死な状況がある。
入試を改革して、単に知識量で勝負が決する世界を変えた方が、早いのではないだろうか。


これから、21世紀を生きる人たちにはあらゆる全てのことをできてもらう必要はないのではないだろうか。
もちろん、知っておくべきことはあるのだろうが、その知っておくべきことが膨大な量に上り、現在においても増加している状況だ。


そういう世の中で、一人の人間のある分野への圧倒的な才能が埋没することもあるだろう。
思い切った精選や子どもの特性を活かすことができる入試が知識のみならず意欲や問題設定力なども測れる形式で実施されるようになれば、現場も必ずやそれに対応した授業となっていくことだろう。


どちらが先かを争っている間に、貴重な子どもの学ぶ機会が損失されていく。
事は急ぐのであり、決断を要する状況だと言える。

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