⑺大学知の大卒知性が世界を愚行へ導いている。

山本哲士氏へのインタビュー7

ーーこうした、不毛な出来事が起きてくる背景というか根拠はなんだとお考えになりますか?専門性のすごい劣化が起きているのに、専門家に聞くとか委ねることが増大しています。自分だけがわかってるつもりの狭い専門見解です。
一般に、本が読まれなくなり、新聞も機能しなくなり、テレビの平均的な一般思考やウエッブでのただの意見主張が波及して、知性の総劣化が確実に起きています。
山本 文化市場の閉塞、と私は言います。そこでの知的資本の流通が劣化しているのですが、原因は、大学システム総体の知的劣化、出版メディアの消費利益主義、この二つの共謀世界に、加えて情報技術が個人化されて使われている一種の過渡状況であると思うのですが、「社会」という均一・均質空間の規範的浸透のままが、知のパワー関係を麻痺させているということです。その知性レベルは、大学知による大卒知性ですね。知で自由な自己技術になるのではなく、シニフィエの知識で自己技術を拘束し、麻痺さえさせるものです。そして、勉強していないのにとりあえずの、その場しのぎのいっぱしのことは言う知性です。都合のいい知識だけは所有している。小論文のようにこじんまりと整っているのですが、何も言っていないのです。
日本で大学進学者がその人口の半分以上になってから顕著ですが、2000年前後ぐらいですが、先進国では大卒知性が支配的になっているというより一般大衆化しています。欧米では、その大衆化の限界を脱すべく、例えば、企業リーダーたちの60%は大学院卒である、内容はともかくとしても知的疎外表出を高度化したのですが、日本はたった数%でしかない。それどころか、一般企業人たちが、「経験がある」と錯覚され、大学教師たちになっていく。真正の学者・研究者がいないからです、しかもアカデミックな基礎訓練もなくです。ひどい知性ですよ、テレビで偉そうなこと言ってますが。学者が偉いと言ってるんではなく、学問をナメてます。
大学は、学生たちにはただ資格所得のためだけで、ともかくでて仕舞えばいい、大学教師は学生を落とすと自分の責任が大きくなるから、通してしまえと、自分の学問的怠慢をそこに重ねて、知的育成ができていないで、ことなかれ「教育」をしているしかなくなる。しかも、学内雑務が余計なことばかりさせられて過剰になっている。知的環境じゃない、怠慢、懶惰の環境が自由だみたいになって、あいも変わらず、試験だ評価だなど、無意味なことをしている。規範性が不能化を招いています。やればできるんですが、しようとさせない環境ですね。
これは、文科省の制度経済政策と絡んで、制度再生産機構のタスクを最優先したシステムでしかありません。既存社会の「生産者=賃労働者」の再生産システムです。隠れたところでは、資本と労働の分離・分節化の生産諸関係の再生産機能です。自覚・認識さえないと思います。これは専門不能者disabling professionalsの再生産を結果します。
科学分野は、外在規制が大きく働きますから、なんとか進歩・発展を試みていますが、研究費が少なすぎるし、文系・社会系は、既存秩序の制度再生産しているだけで、研究費など年間10万円前後でしかない。大学は研究できない環境です。研究するな、教育しろ、という場になってます。
一つの大学で数人の少数、大学教師が学問的なことをしていますが、多数はしていない、教育なるものの「良き躾」に専念しているだけです。しかし、科学分野でさえ、主客分離の客観主義で、測定可能なことをしているだけで、不良設定状態への無能を曝け出します。幼稚で狭隘な高度技術科学ですね。原発がその典型です。爆発した事故現場の場所へ行くこともできない、そんなものを作ってるんですから。戦争の軍事技術だけが高度になっていく。そんな高度な技術、幼稚だということでしょ。爆発しないようにしていて、爆発の逆生産を常に孕んでいる。
つまり、科学への文化的統治技術が不能化している、政治資本の劣化です。政治家たちの賃労働者化は、経済大企業の幹部・社長の高給賃労働者化と同じであり、そこに対応している原発事故処理賃労働の命がけの危険疎外=高級賃金という「搾取」体系です。ここが、何も基盤は変わっていないのに、低賃金でなく高賃金になっているという「労働疎外王国」と私は呼んでいますが、その構造化です。経団連などは、高級賃労働者団体でしかない、労働組合のただの変形盤です。つまり、資本経営が何もわかっていないで、社会規範の管理運営しているだけです。組織はソフト・スターリニズムそのものですね。
大卒知性とは、賃労働知性なのですが、疎外論も商品論も知らないで経済経営しながら、一般教養的に無意識のマルクス主義なんですよ。物事を否定すれば、また「あいつが悪い」「企画が悪い」と言えば、客観性を擬制し、自分は正義だ、正しいと思いこむ仕方です。思考していない思考を展開できる能力で、答えは一つ、意味は一義的、意味されたことのみが真実、与えられたことのみをこなす、偏差値能力ですね。「<しない>ことをする」、逆生産構造になってます。
大卒知性の知的特徴を言いましょう。
第一に、因果関係論です。原因がなんであるかを探せば、物事は理解でき解決さえされるという単線思考です。測定可能、観察可能なことしか見なくなります。
それは第二に、通時的な思考や解釈をすれば物事が分かったとされる仕方です。これは歴史化と歴史性化との違いを分かっていない思考なのですが、最大の効果は形而上学的な次元を消しさることになります。吉本全集がやってることです。軌跡は過程ですが、思考や理論は構造的でありテーマ性が設定されないと意味ない、つまり共時的な構造が相互関係しないと意味ないのですが、時間経過に時間的進化・発展があるとされるヘーゲル史観ですね。「本論」が強烈に批判しているところです。時間順序に進歩・発展があるなど、学校化の梯子段に登っていくことが進歩だという次元へ落下している思考です。
第三に、それらは所詮、連続性を単線的に観て思考しているだけで、見えない語られないものは実在しないとします。シニフィエだけが事実であり、真実だとしますから、そこを可能にしている諸条件は考慮に入れない。
そもそも、シニフィアンとシニフィエが、等価な裏表だとしている粗末な思考からなされています。ましてや、シニフィエのないシニフィアンスなど、まったく考えもしない。
要するに、浅薄な近代思考です。
すると社会的には、制度地位権威に質がある、大きい方が立派、経済力が自由を保障する、などとなっていきます。偏差値学力でしかない東大が一番偉い、大企業が優秀、など規範階層化の形式が優先され、個人は力なく組織の方が上、とされます。
知識を積み立てていけば知的だ、というクイズ番組と同類で、知るということと知識の混同ですね。しかも、知ることには、再認の誤認が介在してくることに全く自覚がない。認識の放棄になっている思考です。
NHK教育テレビで、ヘーゲルの否定媒介について、AかBかのどちらかを否定していってたどり着く真理だなんて、ウルトラ「バカ」を平然と説いていましたが、二律背反思考と弁証法思考とを混同したエセ論理ですよ。NHK放送大学で、記号論理学で述語理論を説いていましたが、呆れ果てたですね。日本語に、コプラも主語もないのにですよ、そんなことも分かってない。述語規定が論外です。
ひどい出鱈目学問の大学知状態になってます。こんな国、崩壊するしかないと感じます。
社会の社交性や人間相互関係が、エモーショナルに個人化されており、そこに起きている規範性や合理性の変容を、経験はしていますが、なんであるかがわからなくなっているゆえ、そこを決して明証にしようとしない大卒知性です。社会関係への気遣いや配慮が優先されて、事実や本質がなおざりにされる、つまり知性・理性の服属化です。ホスピタリティが、気遣いだ配慮だとされるのも、大卒知性の現れです。
原書どころか、解説書さえもう読めなくなり、wikipedia知識しか調べない知らない状態に学生はなっています。そこに、チャットGPTだ、生成AIだなどとエセ物がまた東大を中心に波及されてきます。原発に続く、御用学者たちですね。とりあえず問いを立てても思考を組み立てられない仕業になるだけです。宙ぶらりん知性だけが稼働していきます。思考していないんではなく、制度化された行動への反省的省察がなされないで、手持ち知識だけで行動している状態です。
私は、東大を頂点にしている「大学偏差値ヒエラルキー(階層構造)」が日本近代を社会発展させ、そして日本文化を疲弊させた、と理解しています。まず「社会」を作った、そして次に建造環境をモーター速度で作った、そして分離のままの光速度情報技術世界を作り、それを官僚体制で、再生産してきたと見ています。近年ではパブリックを「公共」だと称して社会の再実定化を平然としている、似非もんです。
世界で、東大40位たらずが頂点になったヒエラルキー低知性の産物です。中でも決定的なのは、日本語自体を何ら理解も解析もできずに、出鱈目<主語>を作ったことです。これはひどすぎる。そこが、すべての元凶ですね。哲学がそこへ加担します、コプラもないのに論理学だと。思考形式が不可避にメタメタになります。
こんな出鱈目知性=メタ知性で、社会運営がなされ国家経営がなされている、その末路が今です。途中までごまかしごまかしやってきたが、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどが吹っ飛びましたね。述語制を無意識であれ、ひきずっていたから為せたんですが、もう完全に近く消えています。そこが、大学入学者が該当人口の半数を占めてきたことに対応しています。
大卒知性の社会構造が、官僚体制です。政治も経済も、そこが支配決定的になり、国家がなんであるかもわかっていない官僚が、社会統治をしていきます。税金でむしり取られているのは、中間階層ですよ。従順で規範的だから、どんどんターゲットにされているのも、大卒知性は自分のマネーの背景やシステムさえ考えなからです。そのくせ、政府を信用していない、批判感覚を持っているという大卒知性です。信用していないが、変えようとはしないのです。
欧米は、制度的に、大学システムの代わる高等研究機関を作って、閉塞からなんとか脱してきましたが、それも今や膠着していますけど、知の最低水準というか基礎水準は高めている。日本はまったくノーです。
吉本言説が無視されているなど、その象徴です。
海外で学んできた若い学者たちは、どうにもできない環境に否応なく適合させられて、これはものすごい負の作用ですよ。
私は、パリの社会科学高等研究院(EHESS)やローザンヌのホテル大学院と協力しながら、日本でそれを作ろうとしてきましたが、大学人たちが安定した大学賃労働や制度権威に依拠したままで動こうとしない。狭い個別専門は高度化していると一定評価しますが、領域を侵犯する、つまりシニフィアンが見えてくる場所ですが、そこへの文化的探求はほとんど皆無です。なんとか、数人の優れた学者の方々との協働は組んできましたが、制度機関化できない。
出版社の劣化は、大卒編集者の劣化とともにすさまじい。書物の質的落下です。今回のS社など、昔はいい本を出していましたがそれでは赤字になってしまうと、中層的な知的本で乗り切ろうとしていますが、市場が許さないからでしょう。中間知層への編集方針は良い傾向性としてあると思います、良心的な出版社です。しかし、吉本言説はそこには治らない、ほとんど溢れ出てしまう。
経済的配慮に、知性の質がともなわなくなっています。
いくつかの小出版社が踏ん張っているだけ。
そこは、もっと根源的に、流通支配の愚行の結果です。雑誌中心流通で、書籍は売れなくなるシステムに成り下がっています。本屋が本の判断をできない。東日販支配の瓦解はやっと始まりつつありますが、私の出版社のようなものは参入できない。口座を開こうと交渉してgoサインが出たなら、一度も示されていなかった、「900万円出せ」ですよ。これは「あなた当選しました、その賞品を得るには900万円出したなら権利あげますよ」という。詐欺でしょ、これ。大喧嘩です。こんな閉鎖ビジネスやってるから、経済破綻へ自分たちでいく。amazon帝国につけ込まれた。大学知性のなせる仕業ですよ、これ。
物が足りなかった、本も欠乏していた、そんな時代のシステムのままです、その再販委託制度など、ガンです。なのにまだ祀っている。本屋は本も見なくなり、大卒知性で本屋さんが選んだ、などとやってますが、私が本を出し始めた頃、1980年代ですが、本屋はちゃんと本の質を見れていましたよ。今や、どんどん潰れている。
いろんな経験を、経済企業と接してやってきましたが、一言で言うと、ビジネスしていない、代わりに社会規範・規則運営しているだけ、資本概念の完全な不在で売れる商品作りを当てずっぽうでしているだけ。再生産構造があるから、その破損修正しながらなんとか持っていますが、これ破綻するに決まってます。持っている技術、すごいですよ、売れないからと出し惜しみしているかないしは禁止されているだけです。担当者はクサってますが。売り方までこちらに聞いてくる、なんですかねこの経済不能化。大卒知性が全ての悪源、と私は判断します。
先日、九州で経営者の方々と接しましたが、日本経済はもうだめだ、自分たち九州から、博多から経済していこうと、とても元気でした。こういう「場所」からの動きは大事です。
個別専門主義がどんどん細分化=緻密化されていくと、固有名詞を入れ替えればどんな対象にも通用する一般化に落下します。他方、何も意味作用を指示しない中間知層の拡大です。
個人化の進展の中で、自己技術が崩壊しています。
また、情緒資本が主観感情化されて枯渇している。
知的資本は、昔でいえば中等学校程度(大学教師の教師人口が同じぐらいです)。
そして、ありもしない「主語化=主体化」の脅迫観念を抱いたま、規律従順の良い子になっている。
すると、もう自分を守るだけで精一杯になる。内面は不安だらけ。
大学人は、シニフィエしか見れていない。学生のご機嫌伺いになっているソフト管理者であって、80%は学者ではない、ただの教育賃労働者。
プーチンもNATO官僚も、G7政治リーダーも国連も世界機構も、大卒知性での世界経営=マネジメントになっています。
つまり、近代大学システムの役割は終わっているのです。社会的選抜で、偏差値指導能力を形成し、大衆を愚鈍化しイデオロギーなき教条化へ教え込んでいく仕組みです。
知的資本の創造的形成をナメていますね、世界全体が。
ウクライナ幹部の知性的な顔に対してロシア幹部の馬鹿面に典型です。無能が、権力機構にしがみついている。それが末端の組織機構にまで浸透している状況です。
東大解体や東電解体がなされない「社会構造の麻痺」です。矛盾はすぐ法律化され、実質は何事も進まない物ごとが累積している麻痺です。
すると、その副作用は、非真正的なものが真正だと主張され、真の真正性を無効化するように作用してきます。今回の出来事がその典型ですね。日本で、最高峰の書において起きましたね。最高峰の書だという認識もない者によってです。そして日本でいちばん小さな出版社の一つである、うちに対しての否定。「フザケンな」です。
全体主義は、大上段に振りかぶってくるんではない、小さな日常にじわじわと浸透していくのです。
だんだん、危うくなってきますから、もうこの辺で止めておきましょう。私の戯言など、聞いても疲れるだけでしょうし・・・
ーーいえ、ありがとうございました。あとは、我々がどうするかですので、あまりにひどい状態が続くようでしたなら、再びムーブメントをおこします。
山本 最後に、この全集編者や関係者たちに、「死ぬなよ」、「正直に生きろよ」ですね。多分、人が気づかない誤魔化しでやって来れたんでしょうが、人はちゃんと見てますよ。ごまかしは、必ずほころびます。間違いは必ず正されます。それでなくなったときは、もう全体主義ですが、全体主義もいつか必ず崩壊します。だからといって闘いを放棄したなら、もっと無惨な状態になります。
正しいから全てが正義だ、ともならない。それも全体主義兆候です。正しいことは、規範ではないのです。だから、闘いが起きる。
正しさの基本事項があるだけで、正しさの効果と混同してはなりません。でないと、プーチンだって彼の正しさがあるとされてしまいます。
私は、どんな小さなことであれ、世界を歪める許し難い暴挙が自分へ覆い被さってきた時にそれと戦っているだけです。
自分の自分への自己技術をしっかりもってアクションされてください。アクションは結果を求めないことです、目的意識性の実践ではないということです。私は、「ほっといてくれto be left alone」の自己技術です、自分が明らかにせねばらないことはまだ山のようにありますので・・・・・。
物事がしっかり分かっておられる、それは少数者ですが、いちばん意味があることです。
今、明治初期の言文一致の格闘を考証しているんですが、稚拙ながら、凄まじい戦いを言語に対してなしていますし、江戸期へ至る「てには」論や歌学など、非常に高度ですが、その述語制の「文化資本」を忘却し、いかせていない日本になってます。学び、組み替えせねばならない格闘を、今こそ明治期以上に、それを超えてしていかねばならない。
述語制で思考した哲学、言説が西田幾多郎であり、吉本隆明です。これは世界性を持っている言説です。その「本論」概念空間を抹消するような暴挙仕業は、許されてはならないことです。
吉本言説を大卒知性に落とすことではない、大卒知性を脱して吉本言説を領有し、さらに自分たちで深化していくことが肝要です。
(まずは、了)。