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時間ぎらい

湿気た炭水化物でどうにか胃が満ちた。駄々っ子の様に絶えず腹をゆする吐き気をやり過ごしていたら日が暮れていた。おぞましい代謝の繰り返しによる生の消費に焦燥と怒りを覚えるのは自分だけで、損をするのも自分だけで、それ以外にとってこの崩壊期は些末事らしい。いまさら当たり前のことを述べている。

頭がうまく働かない。やさしく肉体(とそれ以外)をぴったり包む檻に雁字搦めにされて、自分の領分を視認することすらできなくなっているので、緩慢に四肢を消化されていることに気づけない。
溶剤を噛んでも味がしない。映像作品を消化できない。行間を読めない。認識のうちに把持できる現在の長さが日毎短くなっている。眼が言葉や概念によって切り分けられる以前の世界を絶え間なく脳に流し込んでくる。停滞。

要するに主観的な価値の拠り所が崩壊しおおせたのだ。

理解や昇華の関数を経て出力されているようで、じつのところ口に入れたものをそのまま吐き出しているにすぎない。私の像は私から発信されるイメージや文章によってしか更新されないので、それはいよいよ解像度も荒く単調で、寓意を剝ぎ取られた鑑誡画の様相だ。

はやく楽にしてくれ。

颯爽と自転車を漕ぐ背広姿を見るだけで、プレハブから漏れるがさがさした演奏を聴くだけで律儀に消えたくなりました。

数日寝室の外に出られなかったり、鏡をまともに見られなかったり、わざわざ皮膚を裂いたりするくらいには限界です。これを対価にどれだけ優しくしてくれるんですか、世界とやらは。

わざわざ勘定しようとしないでくれ。

すべて仮想敵を相手にした打算なのだ。

ありふれた現象をありふれた感覚でありふれた文章に出力しているだけ。身を置くべき義務感と畢竟、という冠詞がつくべき時間軸とがどうしようもなくズレていて、それがいっそう自分を惨めにさせる。

頭だけがばかに熱い。

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