コミュニティ・カレッジのこと
なにげにつらつらとコミュニティ・カレッジのことを書いてツイートしたら、ポジティブな反響が多かったのでちょっと驚いた。誰もが指摘するように、日本は中身よりも極度にカタチに拘る社会なので、意外であった。
”Fラン大学”などという馬鹿げた言葉が恥ずかし気もなく通用する社会だ。たかが10代の頃のテストの点数で人間の能力を測ることのバカバカしさは、社会に出てみれば、役所にしろ会社にしろなんにしろ、誰もが直ぐに気がついているはずだ。
偏差値カースト上位者こそが、一番身にしみて感じているだろう。自分にはたいした能力はなかったと。だからこそ、死に物狂いでこの”制度”にしがみつく。
”日本には階級がない”と言われるが、それは正確ではない。日本人の頭の中は階級でがんじがらめになっている。ありとあらゆることについて、人間に序列をつけないと気が済まない文化が強固に根付いている。
その階級の中の位置によって、人の価値を判断し、言ってることの正否さえ、それで決められる。上の者が言うことは常に正しい。徳川時代から何も変わっていない。つまり、日本に近代はまだ始まっていない。
明治維新を近代革命とみる意見もあるが、そんな外形的な話をしているのではない。人々の頭の中が序列意識に基づく前近代の共同体的メンタリティから一歩も抜け出ていないという話だ。
新卒入社のみを持ち上げ、中途採用を見下し、何年卒とか何期とか先輩とか後輩などとはしゃいで、ありとあらゆる中身のないカタチだけの無意味な序列化に耽溺するうちに、日本はホントに中身のない国になってしまった。
日本の人口はどんどん減り続ける。若者の占める割合もどんどん低くなる。そして、大学は財政危機に陥り、失業する研究者は増える。
コミュニティ・カレッジのような機能が社会にあれば、高齢化する人口は喜んで再教育の場を活用するだろう。偏差値カーストのほんの上位数%しかチャンスを与えられない若年層から新しい才能が発掘されるだろう。研究者には新しい職の需要が生まれるだろう。
最後に残る一番大きな壁は、人々の意識だ。再教育を受け新しい知識や技術を得た大人や、偏差値競争の外で教育を受けた若者を受け入れ、自由に活躍する場が提供できる社会に日本が変わらない限り、コミュニティ・カレッジは政治家のパフォーマンスのように一過性の風邪ひきの鼻水のようなものにしかならないだろう。
このツイートから始まるスレッドを下に移した。
1) 30年以上前だけど米国の大学院生だった頃、食事糞尿睡眠以外はずっと勉強で煮詰まっていたので、絵を描こうと思ってコミュカレのお絵描きコースを取ったことがある。学費は25セントだった。行ってみると、若者に混じって近所のじいちゃんばあちゃんがたくさんいた。楽しい仲間達だった。
2) 何か勉強したいと思い立ったら、いつでも誰でも安くアクセス出来るコミュカレというシステムは良いと思った。そこでガチの学問に目覚めてハイエンドな大学に転校する学生もいる。僕は希望通り頭を空にする時間を持てて、ついでに家庭教師の職もそこで得て満足だった日本にも作れないかなと思う。
3) コミュカレの利点の一つは、学歴という制度的な壁に穴を開けていることだと思う。アメリカは、なんらかの理由で中等教育を受けていないか途中でやめてしまう人の割合が、日本よりずっと高いと思うが、そういう人たちがコミュカレによってスルスルっと公式レールのようなものに戻っていける。
4) 僕のように趣味で何か一つの科目を受講するだけで満足する人もいるが、少しずつ単位を積み上げていけば、短大卒さらに大学卒の学位を取ることが出来る。高校中退と大卒では見つかる仕事も給料もかなり変わってくる。
5) 彼らは、そうやってステップアップしていく喜びを持ってコミュカレに通うので生き生きとしている。ハーバードに行かなかったからといって卑屈になる人はいない。大卒は大卒なので社会に出れば同じように肩を並べている。
6) 日本から海外大へ進学する話題が増えているけど、ことごとく日本的な観点の序列意識に侵されているのが痛々しい。”いい大学へ行ったらいい就職が見つかる”のではなく、”いい大学へ行ってもいい就職が見つかる人もいる”のだが、そこが分かっていないから、悲劇は不可避的に起きるだろう。
7) 国際機関には”いい大学”出身の人がたくさん応募してくるが、コミュカレ卒であろうと東大卒であろうとハーバード卒であろうと、修士取得の最低基準を満たしたかどうかチェックされるだけの話だ。雇う方は、ほんとに優秀な人を見つけるために必死なのだ。採用の失敗は大打撃になる。
8) CNNとFox という両極端のキャスター達を見ていると、どっちの方向にしろ、よくまあそこまでペラペラと頭を整理して言いたい放題言えるもんだと感心する。あの中には、いい大学出の人もいるがそうでない人もたくさんいる。あの手の才能を発掘するために大学名はなんの意味もない。
9) 野球の球団がピッチャーを雇ったり、楽団がピアニストを雇ったりする時に、形式的な基準なんてなんの意味もないのと同じだ。雇う方は、凄い球を投げるピッチャーや、凄腕のピアニストを必死に探すだろう。
10) 職というのは、本当はそうやって動いていくはずなのだが、日本社会はいつの間にかなんでもかんでも学校カーストに収斂してしまって、みんなが歩兵か足軽のように扱われ、より大きな殿様に仕える競争になってしまった。
11) コミュカレのもう一つの利点は、才能の発見だろう。初等中等教育を中断する人口はどんな社会にも必ずいる。理由は様々だろう。この集団にも様々な才能が埋もれているし、まったく挫折なく学校カーストのトップを走る集団の中にもまったくの無能が埋もれている。
12)前者が才能を開花させる機会がないのは、その個人にとって不幸な社会であるし、社会全体の損失でもあるので社会も不幸だ。アメリカは激しい競争社会だと非難されるが、それはどこからでも才能を探すということに貪欲な社会だということでもあるのだろう。
13)どの個人にも幸福を追求する権利があると突き上げられるから、はいはいとしぶしぶそれを聞いてるだけの話ではない。今は見えない可能性を保護し続けると、やがて全員が得するという信念があるのだろう。アメリカの議会の何かの公聴会を聞いているとそれが至るところに現れる。
14)うしろばっかり見てないで、分かったつもりのことだけを押し付けるのではなく、自分にはまったく認識できないような、不可視の未来の可能性を保護する社会でないと、日本は埴輪と土偶を作る社会に戻ってしまう。
Yoshilog Live のシリーズを始めて、二つのことがとても強い印象として残っている。参加者たちの「学生の頃、ちゃんと学ばなかった」という自覚と、「今、学びたい」という意欲の二つ。
40代・50代が7割、女性が7割という参加者の比率はずっと一定している。コミュニティ・カレッジがあれば、この人たちが真っ先に行くんじゃないだろうか?
一人で出来ることはあまりに限られているが、学びたいという欲求のほんの一部でも、Yoshilog Live Space で満たせたらよいと思って、数回で終わる予定が、結局ずるずると続けている。
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