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【小説】ゴールデン・ドロップ

失われた言葉と言葉を繋ぎあわせる魔法を探していた。
自然なリズムや、自然な呼吸を。
魂がいきいきと躍動していた頃の記憶を。
本来、私が知っていたはずの流れを。
世界を満たすパワーを。

私は何度も、それを見失う。
あたまが弱いのかもしれないし、生きものとして大事な部分が故障しているのかもしれない。
発見したと思っては見失う。
体の中には正体のよくわからない澱がたくさん詰まっている。
手放したいのに、気がつくと囚われている。

「心にため込んだもやもやは、世界に反映されるのよ。
だから、風通しを良くするよう、心がけておかなくちゃ」
と泰子さんは言って、丁寧に、慈しむように紅茶を淹れる。
ちょうど透明なガラスポットから、最後の一滴を注ぎ終えるところだ。

紅茶の最後の一滴を、ゴールデン・ドロップという。
これは彼女に教えてもらった言葉だ。
喜ばしいその響き。

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泰子さんの部屋は南側がサンルームになっていて、お陽さまの光が心地よく射し込む。
窓辺の棚に並んだ薬用植物たちが、優しい気を部屋の中にもたらしていた。

懐かしい気持ちを呼び起こすアロマの香りがして、思わず尋ねる。
「泰子さん、これは何の香り?」
「フランキンセンスとラベンダーよ」
泰子さんの部屋にはよこしまなものの入り込む隙がない。

なにかの結界が張られているのじゃないかと思う。
風通しのよい人だけが生み出すことのできる、独特の温かい心地よさが私を包み込む。
この空間はたしかに生きていて、ひとのぬくもりがある。
日々手をかけ、愛を注ぎ込んで磨きあげた空間だ。

モビールの羊が優しく揺れる。
泰子さんは台所でぱたぱたと動き回っていた。
両手の付いた鍋と薬罐とを火にかけ、棚に並んだ缶の中から一つを手に取り、木の匙でティーポットに葉っぱをすくい入れる。
今日もまた、お茶を淹れる儀式から始まる。
紅茶の最後の一滴を、客人のカップに丁寧に落とすという儀式。
その黄金の輝きを滴らせた紅茶を、私は大切にいただいた。

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泰子さんの作る食べ物は、滋味に溢れている。
泰子さんの手で作った食事を食べていると、生きものとして正しい場所に繋がるような気がする。
「おいしいです。細胞の一つひとつに沁み渡っていくような気がします」
お世辞でも何でもなく、心からそう思う。
「あら嬉しい」
ふくふくとした温かい顔で、泰子さんは笑った。

筍と蕗の炊き込みご飯、おかかをたっぷりかけた菜の花のおひたし、それにはまぐりのお吸い物。
どのお皿にも春の香りが満ちている。

「旬のものをいただくのってありがたいです」
私がつぶやくと、泰子さんは、
「春の食材ってちょっと苦いでしょう。苦味のある食べ物は、冬の間にいっぱい溜め込んだ老廃物を体の外に出してくれるのよ」
と教えてくれる。
「デトックスってやつですね」
「そう、春は毒を出して体を緩めてあげないといけないのよ」
「そっか。筍や蕗や菜の花がいちいち体に沁み渡るのは、きっと体が欲してるからなんだ……」

なるほど、私はひとり頷くのだった。
泰子さんの作る食べ物には栄養とともに学びが詰まっている。
それと同時に、自分がこれまで生きものとしてあまりに無頓着だったことに気付かされる。
「自分で言うのもなんだけど、おいしいわね」
泰子さんもご飯を口に含んで、いたずらっぽく微笑んだ。
「やっぱり植物ってすごい」
「そうですね」

私たちがいただく春の恵みは、植物たちが厳しい環境を生き抜くために蓄えた成分でできている。
春らしいほろ苦さも、また恵みだ。

私の目の前のお茶碗やお皿がきれいになっていくのを満足げに見届けて、泰子さんはまた手仕事に戻ってゆく。
楽しそうに手を動かす泰子さんは、凛として見えた。
部屋を心地よい空間にするのは、日々の小さな魔法の積み重ねだ。
愛情を込めて住んでいる場所を磨きあげるという行為は、聖なる結界を作り上げることなのだ。
手入れをしている場所にはかみさまが宿るというけれど、それは本当だという気がした。

働くひとの美しさに、私は見とれる。

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泰子さんがデザートに用意していた金柑のタルトは、素朴だけれど陽だまりのような味がした。
よいものを口にすると、それだけで少し元気が湧いてくる。
よいものとは、手間をかけて愛を込めたもののことだ。

人の暮らしから、そういった豊かさが減ってきている気がする。
便利で快適な暮らしと引き換えに、私たちは大切なものを失った。
そんな気がする。
手間をかけ、丹精することが苦になってしまった。

手間をかけることを億劫に思ってしまう。
私も例外ではなかった。
便利を買うことに、あまりにも慣れてしまった。

泰子さんにとって、丹精を込めるのは楽しみの一つだ。
手間をかけることの幸福を知っている人なのだ。
「あなたの体はあなたが食べたものでできている。
だから適当なものばかりを食べていてはだめなのよ」

その通りだった。

私は生きることにあまりに無頓着だった。
泰子さんと出逢ったばかりの頃、私は生きていくのに十分な力が枯渇していた。
本当に言いたい言葉さえも奪われてしまっていた。
無気力という魔がいつの間にか私を支配して、内側からじわじわと浸食されていたのかもしれない。

金柑タルトとゴールデン・ドロップのしたたり落ちた紅茶をゆっくりと味わいながら思う。
心地よく並んだ鍋や調理器具。
楽しげに棚を彩る食器たち。
きゅっと絞ってかけられた麻の布巾たちさえも、与えられた仕事をこなした充実感に満ちている。

私の中に入り込んでいた姿の見えない魔物が影をひそめる。
やつらはここでは生き延びることができない。

換気のために開け放たれた窓から、小鳥たちのさえずりと春の風が入り込んできた。
レースのカーテンを揺らして、心地よい風が吹き込んでくる。
ここには正しく風が吹いている。


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