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「次元の違う王者」井岡一翔(志成)に挑む、遅咲き叩き上げボクサー・福永亮次(角海老宝石)の覚悟①

トレーナーの奥村健太がその報せを伝えるため電話をかけたとき、福永亮次は現場仕事の真っ最中だった。

型枠大工。職人歴は今年20年になる。15歳で見習いになり、職人時代を経て、今は一人親方として仕事を請け負い、工事を采配している。
25歳でボクシングを始めて27歳でプロになってからは、工事の進捗次第で計量日や試合当日も現場に出た。日本、東洋太平洋、WBO-アジアパシフィックと三冠王者になったあともその二重生活は変わっていない。

その日も品川にあるマンションの建設現場でハンマーを打ち下ろしていた。

「あ、奥村さん、お疲れ様です」

いつものやや高めの声で電話に出た福永に、奥村は、単刀直入に切り出した。このトレーナーは、年下であろうが練習生であろうがボクサーに敬語を崩さない。

「井岡選手からオファーがきました」

「……」

一瞬、間が空いた。

「ほんまですか」

問う声に、わずかだが戸惑いの色が見えた。
 
奥村には福永の今の胸中が手に取るようにわかった。信じられないのは自分も同じだったし、なんといっても相手があの井岡一翔、なのだ。

今月3日、大晦日に決定していたWBO世界王者井岡一翔(志成)とIBF王者ジェルウィン・アンカハス(フィリピン)の王座統一戦の中止が発表された。新型コロナウイルスの変異株、オミクロン株の感染拡大防止策として外国人の新規入国が停止されたためだった。
日本人ボクサー相手の防衛戦に切り替わるのではないか、という憶測が流れ出したのは数日後。その相手として名が挙がったのが福永だった。
福永と奥村の耳にその噂が届いたとき、
「本当になったらどうします?」
そんな会話を二人で交わした。
福永は「ないない、ないやろ」と一笑に付した。昨年末に戦った世界3階級制覇の田中恒成(畑中)のことですら「自分にはやるメリットのない相手」と言った井岡が、自分など相手にするわけがない。
それから、二人には、井岡はボクサーとしてあまりに次元が違う、という共通認識もあった。だから互いに明言はせず、
「いやぁ……ははは」
乾いた笑いで会話は終わった。

その「次元の違う」王者への挑戦が現実になろうとしている。

ほんまですか、と確認する福永に、奥村は自分にも言い聞かせるように「はい」と答えた。

「どうされますか」

福永は即答しなかった。出来なかった。

「……ちょっと考えさせてもらっていいですか」

「もちろんです」


通話を終えると、福永は即座に元請け会社の社長に連絡をとった。
ボクサーとしての自分の心は、もう、決まっていた。だが職人、一人親方としての責任がある。

「今の現場、誰かに任せられないでしょうか。……実は、大晦日の試合のオファーがきました」

唐突な申し出、その理由に、スマホの向こうから、息を呑む声が聞こえた。
だが、おそらく様々な局面で即断を迫られることに慣れているであろう社長の対応は早かった。

「……わかりました。引き継ぎだけはお願いできますか。そのあとはボクシングに専念してください。それから……どうか頑張ってください」

 温情が、胸に沁みた。
「……ありがとうございます。見とってください」

その頃、奥村の頭の中には井岡一翔の映像が駆け巡っていた。自分が現役の時からお手本にしてきたボクサーなのだ。試合はすべて観てきた。彼の舌を巻くような「精密機械」の技巧も強さも頭にインプットされている。

福永は少し考えたいと言ったが、奥村には、あの人は受けるだろうという確信があった。

ボクサーなのだ。なにより、福永亮次、なのだ。どれほど不利な条件、状況だろうが、チャンスから、勝負から逃げる男ではない。
むしろ逆境に燃え、逆風に吹かれるほど本領と本能を剥き出しにする。出世試合となったフローイラン・サルダール戦(フィリピン)での大逆転KO劇、激闘を越えて死闘となった中川健太(三迫)戦ではぞっとするような殺戮本能と不屈を見せた。前任の田部井要トレーナーは「亮次には狂気が棲んでいる」と表したが、奥村もまさにそうだ、と思う。勝負どころで何の躊躇もなく勇敢にも捨て身にもなれる男が、チャンスを棒に振るはずがない。

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写真 山口裕朗

世界王者。
4年前、左急性硬膜下血腫でボクサー生命を断たれるまで、奥村自身が見ていた夢だった。心に血を流しながらボクシングへの思いから自分を引き剥がし、トレーナーに転向してからは、担当するボクサーを世界へ連れて行くという誓いを胸に、日々ミットを持ってきた。

その思い焦がれてきたチャンスが目の前に差し出されている。だが今、奥村に押し寄せてくるのは高揚感ではなく、大変なことになった、という重圧だった。

世界4階級制覇の猛者。井岡一翔は持っているスペックが違う。鉄壁のディフェンス、パンチの的確さ、対峙した者たちが必ず口にするノーモーションの「見えない」パンチ、瞬時の的確に過ぎる判断力。踏んできた場数も、戦ってきた場所も違う。戦績29戦のうち21戦が世界戦なのだ。考えれば考えるほど途方にくれるような井岡の巨大さばかりが脳裏をよぎる。
落ち着こう、とにかく、落ち着こう。必死に言い聞かせるうち、吐き気まで催してきた。

電話から2時間後だったか3時間後だったか。夕刻、作業服姿の福永がジムの入り口に現れた。
目を見て、わかった。斬り込みに向かう武士のような覚悟を決めた目。待機していた奥村が近づくと、福永はその目を見つめ、一言、言った。

「仕事、やめてきました」

仕事の段取りはつけた、試合を受ける、の意。

その刹那、奥村の内側で何かが起きた。まるで憑き物が落ちたようにすっとそれまでの動揺が止み、腹の底から闘志が湧き上がってきた。

二人はどちらからともなく頷いた。

「やりましょう」



 2人はジム2階にあるスタッフルームに向かうと、浅野完幸マネージャーに告げた。
「世界戦の話、進めてください」

鈴木眞吾会長はその場で、千葉に暮らす福永のために、ジムのそばにあるホテルを押さえ、セコンドにつくトレーナー陣を招集し戦略会議を開いた。
まるでいくさだな。浅野マネージャーは思った。圧倒的不利は承知。下馬評はおそらく8対2、いや9対1だろう。その前提で福永をどう勝たせるか、誰の顔も、声も、熱を帯びている。
彼もまた、1月に福永が防衛戦を行う予定になっていた中村祐斗(市野)戦のプロモーター、中村のジム関係者への謝罪から世界挑戦に関わる準備とやることは山積みになった。

 合意書にサインをし終えた福永に、浅野マネージャーが右手を差し出した。手の骨が軋むほど、ギリギリと握り返してきたその力の込めように、本気を見た。こいつは、きっと、やる。

試合まで3週間弱に迫った夕方のことだった。(続)


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