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強み?本気で捨て身になれるとこちゃうかな。俺には失うもんも守るもんもないんでね。福永亮次②

夢だの、志だの、目標だの、きらびやかな未来だの、思い描くことのなかった10代だった。
いつも、何か苛立っていて、些細なことでキレた。憑かれたように喧嘩に明け暮れる日々。
その頃に何があったか、理由や背景について、福永は多く語らない。
「ただ家庭環境は……関係なくはないんちゃうかな思います」

両親が離婚したのは中学1年のとき。母は一人で家を出た。父と兄、妹と残った家に、ほどなく「おばちゃん」が住まった。父のその再婚相手とは折り合いが悪く、異母姉妹が生まれてからは、家はただ居心地の悪い場所になった。
地域選抜に選ばれるほどのサッカー少年だった福永がクラブチームをやめ、荒れ始めたのはその時期だ。

中学を卒業すると、型枠大工の親方でもある父が営む元請け会社に、見習いとして入った。

「どんだけ夜遊びしても、朝6時に起きて、仕事だけは真面目にやっとったんです」

夜は、喧嘩相手を求めて街に出た。現場を終えた8時頃から、ほぼ毎晩、給料のいくらかを懐に入れ、似た境遇の友達と梅田や十三の繁華街に飲みに出る。
「昔は15の子供にも普通に酒を出してくれる店があったんでね」
酒に酔い、イキって道を歩けば、容易にいくらでも相手は見つかった。

「何見とんねん」
「しばくど、おら」

素性も強さも知れない相手と対峙したときの、背筋がぞくりとする瞬間が好きだった。その頃求めていたのは刺激だけだ。殴り殴られ、相手を傷つけ、自分も痛い目に遭って。そういうやり方で憂さを晴らさねばやりきれないほど、日々鬱屈がたまっていた。

今思えば、淋しさがあったんじゃないかと、大人になった福永は言う。

家に居場所がないと感じていたのは兄妹も同じだったか、兄は16歳のとき実母の元に行き、妹は15歳で家を出た。家には寝に帰るだけだった福永が一人暮らしを始めたのは20歳。以来一度も実家に帰っていない。
多感な時期に別れた実母とは、20歳の時に、1度会った。7年ぶりの再会だったが、「何の感情もわいてこなかった」

また会いたい、とは思わなかった。

父のことは、見習いを始めた時点で、親父ではなく社長、と線を引いた。
「俺と同じで」口下手で照れ性で、口数少なく、必要なことも口にしない父とは、もとより親子らしい会話はほとんどなかった。が、その時から交わす会話は仕事絡みだけになった。

関わりの薄い家族関係。
愛情を確かめるようにわざと我が儘に振る舞ってみせる相手も、淋しいときに淋しいと言える誰かも、喜怒哀楽を共有する関係も、家にはなかった。
自然、素直な気持ちも思いも口にすることはなくなり、すべて胸の奥に押し込め、一人抱えるのが癖になった。人に何か期待して、それが叶わず傷つくぐらいなら、と最初から他者に期待しないようにもなった。

「淋しいとか孤独やなとか若い時分はありましたけど、もうないですよ。なくなったゆうか、慣れた、ゆうかな」

気の置けない仲間はいた。だがつるんで何かをするというのは性に合わなかった。
一匹狼。
「そんなかっこいいもんじゃないです。でもまあ、そんなような、ね」

 10代は散々遊んだ。だがいつしか呑んで喧嘩するだけの日々に飽いた。自分の人生は何なんやという危機感めいた思いもあった気がする。喧嘩をしても憂さは晴れなくなった。そのころ胸を占めていたのは虚しさ、だ。
「なんかだりいな」
気づけば、そうひとりごちることが増えた。

何か、変えたい。
福永が生きる張りのようなものに飢え始めたころだった。近所にエディ・タウンゼントジムが移転してきた。それが転機になった。あのときの福永には体ごと打ち込める何かであれば、人生の流れを変えるきっかけになるのなら、キックでも総合格闘技でもよかった。だが、出会ったのはボクシング。
25歳のときだ。

そんな歳から始めて勝てるわけないやろ。
チャンピオン? 無理や無理。

仲間うちにも仕事場でも鼻で笑われた。

いつか見とけよ。

心の中で吐き捨てた。

エディ・タウンゼントジムで2戦を戦い、仕事の都合で地元大阪から上京した。宮田ジムに移籍し全日本新人王まで上ったが、自分のボクシングを見失い、引退状態の時期を作った。快進撃が始まったのは角海老宝石ジムに籍を移した2年半前。移籍2戦目でWBOアジアパシフィック王座を、3戦目で日本と東洋太平洋2つの王座をもぎ取り、三冠王者になった。

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家族は誰1人、そのベルトを見ていない。
身内で福永の試合に来たことがあるのは妹だけで、それも大阪時代の遠い日のことだ。
「親父は来るとも言わんし、来て欲しいとも思わないしね」
強がりには聞こえなかった。強がる段階はとうに越えたのだろうと思う。

父とはボクシングの話をしたことがない。
だが自分に関心を持っていないと思っていたその父が、三冠王者になった数日後、「お前、勝ったらしいな」と初めて言った。おめでとうの言葉のかわりに包装紙に包まれた箱を手渡された。財布だった。

息子の三冠獲得という活躍を知り、父はどんな思いでプレゼントを買いに出かけたのか。

福永はその時、親父も変わったな、と思った。
「それまで〝親〟を出すことなんてなかったのに突然出してきて、照れるゆうか戸惑ったゆうかね」

だがその後、関係が悪化して、仕事の関係を続けるのが無理になった。この夏父の会社を辞めた。別の元請け会社の世話になることになって、以来連絡は一切とっていない。


福永は「家庭のぬくもりとか団らんとか味わったことがない」分、ボクサーの後輩のことは「めっちゃ」可愛がってきた。
コロナ以前は、よく後輩たちを泊まりがけで家に呼び、鍋などを振る舞った。朝起きたときに腹が減っていたらかわいそうだからと、一人早めに起き出して、作ったこともないホットケーキを焼いた。「そしたらマズっ、味せぇへん、とか言いよってね」
嬉しそうにそんな話をするときの福永は、人情味に溢れ、一匹狼とはほど遠く見える。
その弟分たちの中でも身内同然の後輩がいる。岸部久也(角海老宝石)。世界戦が決まったとき、福永は5万円のチケットを買い、岸部に手渡した。
「リングサイドで見とってくれ」

福永が誰かにそう言ったのは初めてのことだ。

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(年末年始、秋田に帰省する予定でいた岸部は東京にとどまって福永に付き添い、こまごま世話をしたり話し相手をした。写真左)



福永の心と背には、過去に付いた痛み、付けた傷がある。背中に龍の彫り物を入れたのは16の時。
「友達の間で流行ってたんです。で、俺も入れたいわーってそんな軽いノリで」
 過ぎたことはくよくよ考えない性分。だが、背の入れ墨だけは激しく悔いた。
「こんなものを背負ってる自分は謙虚にしとかんといかん、という負い目ゆうか、戒めてるところがずっとあります。こんなやつがオラオラしとったら、ただのチンピラやないですか」

 そうした負い目、過去の傷、味わってきた孤独や淋しさすべての感情、経験が、ボクサーとしての武器に繋がってると思う、と福永は言った。
「度胸とか根性とかね」と言い、あとは本気で捨て身になれること、と付け加えた。
「それが一番大きいちゃうかな。俺には何も、失うもんも守るもんもないんでね」


試合が近づくと、浅野マネージャーはボクサーたちに入場曲は何にするかと聞く。だが福永にはもう確認しない。答えは「なんでもいいです」だとわかっているからだ。
どんな爆音で流れていても「どうせ何も聞こえへんから」だと福永は言う。
「殺す殺す殺す殺すと、殺意を頭に体に細胞に刷り込むことに集中してるんでね、ビデオを見返すまで、音楽が流れていることも知らんかった」

だから闘争本能を作るには、自分には花道があればいい、と言った。

「リングインした時には自分が殺戮本能だけになっているのがわかる」



試合が決まって数日後だった。
朝の練習を終え、2人で一息ついていたときだ。
福永が、奥村さん、と普段呼ぶように呼びかけてきた。

「なんですか」

「大晦日の夜も病院ってやってますかね」

え……。

「……やってるところはあると思います」
必死に平静を装って答えたが、奥村の鼓動は激しく波打っていた。

「福永さんの覚悟のほどはわかっていたつもりです。でもそれ以上だった……」


全部出す。観てる人には僕の熱く戦う姿を見て欲しい。

記者会見で福永はそう決意を表明した。全部出す。熱く戦う。福永亮次は間違いなく、その通りの戦いを見せるだろう。

28日、福永は保持していた日本とWBOアジアパシフィック王座を返上。退路を断った。


2021年12月31日、WBO世界スーパーフライ級タイトルマッチ。
「人生を賭けて人生を変えに」、リングに上がる。この瞬間のために、これまでの人生があったのだ、と思いたい。その答えも出しに行く。

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ありがとうございます😹 ボクシング万歳